書評日記 第295冊
ローレンツフォトグラフ A=フェステティクス
マグロウヒル

 ローレンツの伝記。そして、写真。
 動物学者として名高いローレンツの名を、私は「ソロモンの指輪」で知った。そして、彼の著作はそれしか読んだことがない。
 ただ、牙を持つ者が相手を死に至らしめることができる手段を持っているからこそ、死に至るまでの喧嘩をすることがないことを知った。それ以来、私には「徹底的に」という言葉がない。

 強者同士の争いは、いつしかゲームになる。優劣がはっきりした時、おわりがある。弱者が弱者の立場に甘んじ、去る。強者は弱者を排除し、そして、強者として君臨する。それだけで、争いは終わる。それぞれのテリトリ=社会を守る。強者も守るものがあればこそ、争いを避けない。避けないからこそ、強者であり得る。しかし、争わぬ場面では、睨みを利かせることだけで、弱者は弱者の立場を知る。それが、強者の中の摂理である。
 平和の象徴たるハトは、相手を死に至らしめることができない故に、相手が丸裸になるまで、羽を毟り取る喧嘩をする。相手を殺す手段を持たぬが故の「愚かさ」なのかもしれない。

 擬人的な感情の持ち入れではなく、動物の世界には動物の社会がある。儀式がある。知能があり、友情がある。発展があり、創造がある。
 人も、人であるならば、同じである。
 動物が人に似ているのではなく、人の根元に動物がある。狂暴さという点の動物性ではなくて、遺伝子の導くところのものの共通要素を持つ。
 それは、決して、共食いではなく、蹴落としではなく、他人ではない。

 自分がなぜ人と関われないのだろうか。
 関わることの近さが、恐いのか。

 佐藤晴美の漫画は動物が出てくる。
 「リョク」では、犬神を描く。
 狼が象徴的なのは、その強さと、自律する強さだろうと思う。
 牙があるゆえに、牙の使い方を知る。
 なければ、わからない。

 エドモント=モリス、ライアル=ワトソン、そして、コンラート=ローレンツ。どこが似ているのだろうか?

 フロイトのように、ローレンツは間違っていたらしい。
 私には何処が間違っているのかはっきりはしないが、彼が偉大なことは確かなことで、その偉大さは、その間違いを凌駕する。
 それは、正解、不正解、ではなくて、彼の生き方と、彼の思想が、私に与える影響、すなわち、彼の考える力の偉大さではないだろうか。

 彼のスケッチが、楽しい。
 ル=グウィンの描く未来の考古学に等しい。
 

update: 1997/05/13
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