書評日記 第296冊
テロルの決算 沢木耕太郎
文春文庫

 17歳の山口二矢(おとや)が社会党の実力者を刺し殺す話。
 ルポルタージュとして、傑作ではないだろうか。
 現実にあった話であるから、「現実性」というものがあって当然なわけだが、二矢の真摯な態度に共感を覚えるほど、私にとっては、現実味あふるる小説(?)であった。

 17歳の右翼の二矢が、自分のみの決心において意義ある殺人を行なうことができるか否か、政治的な意図のあるテロルという行為を行なうことができるか否か、その疑問を解消してくれる二矢の行動を順々に記していく。
 昭和30年代という時代、そして、安保問題という現実、その中で独りで二矢は行動を起こす。「独りで」という部分に、二矢自身の価値があり、二矢自身が自分自身を確立させるための拠り所がある。
 むろん、殺害という事実が、現実社会の中で「罪」として定義されるからこそ、また、詳しい事情を知らない人達がほとんどであるからこそ、「そこに至らずとも何か別の方法があったのではないだろうか?」という疑問を呈するわけだが、二矢本人にとっては、自らの思想を貫徹させるために、そして、それこそが自らを自らとして成立させるための条件として、テロルという行為を行なわなければならなかった。
 そんな、無条件に流れる彼の思想と人生の最後は、鑑別所での首吊り自殺に至る。それが、彼なりの「決算」であり、そこに至るまでの一貫した主張(彼であれ、作者、沢木耕太郎であれ、加えて、読者である私であれ)を「一貫した」として納得するしかない現実を思い知らされる。

 二矢の父親は、自衛官である。
 二矢を一喝する態度は、二矢と父親との間に厳格な壁を築く。
 また、二矢の父親が、「息子」二矢をみることが無いのは、二矢とその父親の間には、「父親−息子の関係がない」という関係が両者に培われていることを意味する。それゆえに、父親は、息子に対して距離を持ち、かばうことをしない。また、息子は、父親に信頼をおくどころか、相談さえもできない。つまり、二矢には生まれ落ちた時から、「相談相手」がいなかった。父親から拒否されたところにある二矢の存在は、二矢自身には、苦しい「環境」でありつつ、二矢自身を早期に独立させる促進剤になった。
 それが、独立したところの二矢を形作り、「一途」の部分から逃れることのできなかった二矢を創り出す。

 あまりにも偶然が重なり過ぎるのが現実である。
 一点に吸い込まれるように、人々は、ひとつの「事実」を作り上げる。
 逆に云えば、因果関係が崩れたところにある、偶然の産物である悲劇から、人は影響を受けるのである。それゆえに、その「事実」が、後世まで残る。
 ただ、因果に従順に従うならば、人の行動パターンはそう広いわけではない。人と人とが激しくぶつかり合うエネルギーが高密度である場所こそ、「社会の縁」であるからこそ、あらゆる障害を乗り越えて、「事実」が「必然性」を持って其処に歩み寄って来る。それが、「奇跡」のように見える。
 登場人物を想う読者は、観客は、周りの者は、冷ややかな目を持って見入るしかなく、また、冷淡とは云わないまでも、その「事実」を自分達の成長のための事実として取り込もうとする。

 死を喰らう邪鬼となる。

update: 1997/05/15
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