書評日記 第303冊
はるかなる記憶 カール=セーガン

 カール=セーガンと云えば、「ファースト・コンタクト」のラストシーンが美しい。円周率πを突き詰めてプリントアウトをすると、円が現われるシーン。科学者冥利に尽きる「美しさ」が其処にはある。私が求めていたSFのイメージがある。

 生命というものが本質的に美しいのは、生命こそが利己的遺伝子の追求の根元であり、それを「美しい」と思うことこそが、生命を存続させる淘汰の響きである……という説を私は信じる。
 ダーウィン進化論が持てはやされるのは、その進化の中に競争と淘汰があり、強者こそが強者であるという法則に他ならない。競争の中に敗者が存在し、淘汰の中に死者が存在する。しかし、自らを省みることができない敗者や死者にとって、彼らの存在は勝者にとっての糧に過ぎない。
 思う思わざるに関係なく、自らの歩みが進化という道に組み込まれているとすれば、それから脱する努力(本当のアウトロー、つまり、死)をしない限り、競争と淘汰の波から免れない。しかし、人間の本質が本質ならばこそ、自然理が自然理であり、根元として残されている人間の本能が生き残る本能ならばこそ、人々は協調することで人としての淘汰を免れてきているのではないだろうか。

 ユング心理学では古代の記憶が今の人の心理にも入り込むとする。未だ解明、いや、決して解明されることのない、人が人であるための心理というものが、人が人であらんとして、そして、人から人への良き伝達(淘汰に打ち勝つ手段)を為すならば、人は「人」として生きることができる。それが、自らを知り、人を知り、何が正しいのか、何をしてはいけないのか、何を求めるべきなのか、辛くとも何を振り切らねばならぬのか、何にぶち当たる必要があるのか、何を習得して、何を成し得るのか、何を欲するのか、何を分け与えるのか……等、すべてが、自己の存続を中心として、自己のまわりの存続を願う心である。
 問題は、そう、思考から逃げ出さない意志を持つことである。

 人間は、「思考」の中から自らの意志を発達させる。回りくどい手段を使っても、自己の存続と繁栄と実現を成そうとすれば、その回りくどさに負けない意志の力が必要になる。
 もちろん、あらゆる「運」が人の人生には発生する。まさしく、「運」がなければ、朽ちてしまう人生であったとしても、人は回りくどさに耐えなければ、最終的な運を「運」として掴むことができないのではないだろうか?
 いわば、怠ることなく為される準備というものは、運を受け入れる確率の籠に過ぎない。先は無いかもしれない、しかし、為さなければ成し得ない準備を嫌うならば、人は実現を成すことはできない。

 モラトリアム……そう、社会の中で固定されることを嫌がる、また、社会のある座に座らされることを嫌うならば、モラトリアムという現実に耐えなければならない。
 耐えざれば絶えてしまう人生ならば、それでもよいかと思う。
 一握りの者しか運を掴むことはできなく、また、一握りになれないならば、それは単なる戯言の人生しか残らない。喉掻き切って死ぬ勇気がなければ、一握りになるまで耐えるしかない。ならなければ、なれなければ、お終いの人生があるに過ぎない。

 私の人生が順調ではないのは、最初から順調ではない人生だったからに過ぎない。
 場に甘んじることができない故に、私には場がない。

 オスという種に生まれた時から、アルファ・オスを目指す人生が決定される。
 「頑張る」という意識なしに頑張り続けさせられた私の人生は、これまでもこれからも「頑張る」ことでしか解決がつかない。
 すなわち、諦めが悪いところに私の本質があり、諦めぬが故の辛さに過ぎない。
 ならば、諦めるということにより解放されるのかといえば、そうではない。
 なぜならば、私にとって「諦める」ことは「歩む」ことを忘れることであり、自らを歩ませなくなった自分を私が肯定できるとは思えない。それは、自己が自己から離れられない辛さがある。止めることは死を以ってでしかない。

 何がこんなに自分を意固地にさせるのか解からない。
 ただ、自分の姿が、自分の姿である限り、私はしぶとく生きていることは確かだと思う。

update: 1997/05/30
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