書評日記 第304冊
おはなしおはなし 河合隼雄
朝日新聞社

 河合隼雄の著作を読む時に注意すべきことは、心理学のテクニカルタームは出てこないのだが、彼独自の用語によって解説されるために、例え易しい言葉を使って綴られているとしても、内容的には「むずかしい」とさえ思える要素を持っていることである。
 大学生の時に一度だけ受講した心理学の講義が今になっても鮮明に思い出される。
 私にとって、その時から心理学は、そして河合隼雄の描く心理の世界は、常に正しいものとして捉えられている。

 「おはなし」という用語に込められるのは、小説や物語の中に含まれるコアの部分を示す。中核となる部分は、人の中の深層心理の中から描き出されるもので、再び、人の中の深層心理へと直接語り掛けてくる。だから、文章が拙かろうと、文体がどうあろうと、人が人に語りかけようとする意志があるところには、「おはなし」が含まれる。逆に云えば、「おはなし」が含まれない言葉は単に浮遊しているに過ぎない。
 難しいことを難しい言葉を使って語ることは簡単である。理解しがたい現象や事実が、数々の用語によって圧縮そして分類されるのは科学としての性質上しかたがない部分を持っている。
 しかし、難しいということ、理解しがたいということが、先入観による固定されてしまった思考形態、つまりは「常識」というものを自らの常識として据えてしまうところに要因を持つとするならば、難しいという事実や複雑という現象の度合いが如何に「見方」によって解決されるものか、ということを理解できると思う。それらの「常識」や「常識的な見方」というものを逐次疑うところに、難しさの難しさ故というものがある。

 自らの「常識」を打ち崩すのは苦しい。何故ならば、それは自分の生きて来た道の否定であるから、一度「死」ぬることに等しい。しかし、「再生」はできる。一度「死」に「再生」することによって、人は様々な事象を自分の中に取り込んでいく。

 人生を主役としてではなく、一歩引いた形で見直すこと。
 人が人と関わり合いをする上で、社会の中での地位争いが行なわれるならば「淘汰」は必然である。それは、強者と弱者を生む。
 自分の「幸せ」を何処に見つけるかとすれば、人との切磋ではなく、自分との対峙、仮想的な自分に対して打ち勝つことを私は望む。それが、一人という結果を生んだとしても、仕方が無かろう。

 21世紀の文学というものは、社会と個人との統括であると云う。医学が進歩した時、弱者は弱者のままに生き長らえざるを得ない。身体障害者であっても同じであり、社会に適応できぬまま社会に適合させられる世の中になる。社会が多層化していても、社会があるには違いない。そこには必ず神と悪魔と贖罪者とトリックスター等が存在する。それがあるからこそ社会が社会として安定し、社会として生き長らえる。
 ただし、個としての何を受け入れ、何を拒否して、何を成長させ、何を信じるか、何を目指すか、それは個の問題である。

 「たましい」という言葉に対して、newsに『物質的に存在しない「たましい」がどうし傷つくのだろうか?』という質問が出ていた。誰も答えてはいなかった。誰も「たましい」の意味を知らなかったのか、答える必要性を感じなかったのか、彼の意見に同意するのか、いずれなのかよくわからない。
 私にとって「たましい」とは、自分の中の守らねばならぬ部分、であろうか。しかし、それは自分だけのものではなく、ひとと共有できるものであり、ひとと共有できからこそ、守らねばならぬ部分なのである。
 「たましい」同士が語る部分に「おはなし」が存在する。物語のコアにある部分は、必ず共有できる部分だと思う。

update: 1997/05/31
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