書評日記 第305冊
青い羽のおもいで 立原えりか

 倉橋由美子の「聖少女」の後書きだと思うのだが、「これで児童文学がおわりにしようと思う」という一文がある。子供を対象とした童話が「児童文学」であるならば、それは作品の中にある「深み」の部分が意識されるかされないかにかかっている。
 この作品は、児童文学に含まれているし、あとがきにもあるのだが「メルヘン」であるには違いない。
 だが……そう、必ずしもハッピーエンドとはいえない部分、しかし、子供から大人になった時に振り返るべき子供時代、そして、かつて自分がそう感じていたという実感を残す心を持っていること。そういう要素を含めるところで、十分に大人にも(私が29歳にして「大人」であるならば)楽しめる作品である。

 羽を持つ家族が引っ越してくる。青羽さんの家族は、みな背中にこぶをもっている。その「こぶ」が一般世間との違いであり、その「こぶ」こそが彼等をして主人公との社会の違いを明らかにしている。
 ただし、主人公の少年は子供ゆえに2つの社会の狭間に置かれる。

 実際、今の小学生(または当時の小学生)が、この作品の真の意味を捉えていたかどうかは解かり得ない。ただ、自分が当時読んでいた「あしながおじさん」を考えれば、子供もそれほど能天気に遊んではいなかったはずだし、子供なりに、いや、子供としての社会と大人から期待される社会の在り方の歪みを常に感じていたに違いない。少なくとも、私自身は、素直であることが辛いことであり、正直であることをが非常に困難であることを知らされていた。
 だから、児童文学であっても、能天気に明るいハッピーエンドの作品は、児童にとってもどこかうそ臭さを感じざるを得なかった。むしろ、やりきりない程の結末と、それでも何かを為し得ることによって導き出される結論を、子供は期待しているはずであるし、私は期待していた。それは、まさしく「ただしさ」であり、お伽噺の正義とは違う、理の良さである。

 社会の多層化によって、人はそれぞれの顔を持たなければならない。ある意味で、それぞれのモラルを使い分ける必要がある。
 しかし、未だ複雑な社会に慣れていない、また、複雑な社会に慣れなければならない、大人になるべき子供にとっては、基本となるべきモラルが必要になってくる。それを大人社会の身勝手を押し付ける形で起こる「ダブルバインド」に未だ根底を持たない子供は苦しめられる。
 
 少年の家族と、青羽の家族とは、全く交流がない。子供たちだけの繋がりがあり、青羽の母親と少年との交流があるだけで、少年は彼の思うままに、信ずるところのままに、行動を起こすし、それを阻害されない。多分、この作品が児童文学足り得るのは、其処だと思う。
 現実の社会ではあらゆる矛盾があるし、様々な人がいるのだから受け取り方も様々であろうし、場合によっては感受性すら様々である。
 しかし、「様々である」と気付くのは、様々な人に出会ってからで、何か矛盾を感じる時は実際にどうしようもない矛盾に出会った時である。
 そんな時、確信を持って行動できるためには、何処か根底が必要であるし、私は「根底」を必要としている。
 だから、そんな意味で、誰もが考えるという行為を忘れないために、子供は子供自身で考えなくてはいけない。
 そんな時に、「根底」になるのが、こういう作品ではないだろうか。

update: 1997/05/31
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