書評日記 第314冊
日本アパッチ族 小松左京
角川文庫

 半村良の嘘部シリーズ、野坂昭如の「エロ事師」と同じグループになると思う。
 鉄を喰う一族の話。

 なんらかの歴史を語るほど重たく論じられているわけではない。軽快さ乃至出来事同士の密接さを考えてしまうと「吉里吉里人」より劣るかもしれない。
 大阪弁を小説の会話に使うという手法は「エロ事師」で体験済であるし、いまさら標準語や東京弁に対する形で、大阪弁を主張されてもさほど感化はされない。
 ただ、そういうものから、時代に即している面を「日本…」は持っているのではないだろうか。

 同時代(であるよう)な作品を思い出せば、「戦国自衛隊」のような感じがする。
 あまりにも現実味あふるる事物を現実とは遠く離れた場所に挿入してみる。現実とは遠く離れた小説の世界の中で現出されるリアリティを、現実味あふるる事物の方に沿わせるのか、小説という世界の中での現実味というものに沿わせるのか、そのバランスの中でこのようなSFが生まれる。
 もっとも……「今更」という感じはぬぐえない。
 「今更」に含まれる「古い」という感情は、現在の流行に比するものではなくて、最早そういうものをあまり必要としなくなった落ち着きつつある現実に身を沈めつつあるからなのかもしれない。
 群雄割拠に心奪われる楽しさは、小説の中で描き出される現実が、現実の世界の中のひとつの幻想として描き出され得る可能性を持っている楽しさではないだろうか。そこには、単純とも思える、または「純粋」であるというような、世俗並みの知識を得ない愚かさを保護する態度、または、純粋さを《純粋さ》として決して言動することのない幻想の枠に押しやられてしまった態度からくる、偽りの愛らしさを感じるに至る者は多い。だから、「それこそが小説の中のリアリティ」に過ぎない現世とは違ったところにある感情の悪魔のように適切な使い分けから来ているような気がする。

 とある意味では、この作品には本質なぞ存在しないような感じがする。
 《感情》の流れない冷ややかな面白さを感じるだけに過ぎないような気がする。
 むろん、何が本質であり何が本質でないかは、個人の問うところであろうし、それこそが集団を存続させる多様性に過ぎないわけなのだが、私にとっては突っ込みの甘さ、または、これ以上突っ込むことができないことにより本質を捉えていない・捉えることができない甘さを感じざるを得ない。

 「今更」という「過去においては十分な価値はあったろうが、今においてはさほど価値を持ち得ない既にすたれてしまった価値」という非永続的な価値について、かんたんに同意を述べることを拒みたくなる。
 琴線に触れないとしても、共通であるところの《琴線》に比すれば、酒飲みの戯言として忘れ去られてもしかたがないような気がする。

 読み捨てられるパルプマガジン。
 それは「読み捨てられる」ことこそに価値観を見出す。
 膨大な消費をこなすところに満足を見出す。
 そんな刹那的な価値に対して、「一瞬よりもわずかに長い価値」。
 

update: 1997/07/04
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