書評日記 第322冊
エブリシング 安野光雅
中公文庫

 以前、彼の書評を読んだけど、感性が似ていると思う。
 河合隼雄、谷川俊太郎、安野光雅、と名を並べてみると共通点が浮かび上がる。
 『ものが分かっているじじい』

 物分かりがよいのでなく、どちらかといえば頑固である。
 両足を失っている車椅子の友人がスピード違反をした時「あとは死ぬだけだな」と言えるずぶとさ&的確さがある。
 「優しい」という言葉は結構特別な言葉で、単なる柔らかさを表現しているわけではなく、誰もが知っているように厳しさを内蔵している。単なるやさしさはその場の雰囲気のみを治めようとする場当たり的なものを感じる。泣く子がうるさいから飴でも与えるような投げやりな態度が見え隠れする。結局、長い目で見れば冷たい感じがする。
 あらゆる関与を惜しまない、また、あえて悪人の立場に立たされたとしても臆さない。
 それは「結局、あなたのためを思っているのだから」という科白を云った時、その後にあなたのためを思って行動できるか否かによって科白の意味は正反対になることと等しい。老齢者の洞察は老齢であるから正しいのではなく、老齢という年月を経た道筋が老齢者をして正しい見識を培うに至る。それは老齢者が語るひとつひとつの科白が常にひとつの立場に立っている理の良さを感じさせる。自分が環境によって変化するのではなく、まず自分があって環境に対して様々な様相を見せるものの中心は変らぬ安定があり、それが周りから見る安心感を呼び覚ます。
 ただし、老齢者の言葉だからと云って、社会的に常に正しいとは限らない。ひとりの老齢者から出てくる言葉は常に正しいか、常に間違っているかの何れかになる。ひとつの根底を得ている理論からは根底を得ているからこその安定があるのだが、そこから導き出される数々の対処の方法が聞く者にとって常にマッチするとは限らない。
 だが、縷縷と変容する社会(人類の総体という意味での生物)の中で朽ち老い果ててしまうしかない老体から出てくる言葉は、先が無いからこそ偽りを言ってなんになろうかという正しさがある。あらゆる嘘や偽りの言葉は、自己を保全するための策略であって、個体としての先が無ければ何を覆い隠す必要があるものか。むろん、個体でありつつも遺伝子の保全という名目があればささやかな人数の子孫であっても保護を目的として行動するのは必須である。

 『「老人」と「年寄り」とはどうちがうのだろうか』

 「わたしが絵をかくわけ」は逸品。「K・Iさんへの手紙」も逸品。
 絵を描いたり小説を書いたりするのは、金とか名声とかじゃなくて、もっと自己本位なものだと云う。書きたいから、という単純な理由ではなく、「生きる」ために書く。書いてなければ死んでしまう自分がいるだけで、所詮、絵を描くとか小説を書くとかしかできない人生ならば、それに没頭してやっとこさ「生きる」ことができるのではないかと思う。 その部分で泣けてしまうのは、安野光雅の言葉がまさしく自分の言葉と一致したからではないだろうか。自己から出てくる本物の理が一致する時に得る安堵は、日々の苦しさを紛らわせてくれる。
 同類というほど私は何を成すわけではないのだけれど、この本の中にあるひとつひとつのエッセーが「エブリシング」であるにも関らず、ひとつも意に反しなかったのは、私自身の持つ私自身に対する正しさを具現してくれているのではないか、と妄想したくなる。
 

update: 1997/07/25
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