書評日記 第323冊
赤頭巾ちゃん気をつけて 庄司薫
中公文庫

 かれこれ20年前の作品になるのだが、私には新鮮だった。むろん、私自身が「文学」というものに対して文学部風な視点を持っていないからこそ、新鮮であった、という感想を得たに過ぎない。もちろん、ティーンエイジの青春小説としての視点のみで、新鮮であった、と言っているわけでもない。
 
 村上龍や村上春樹の文体の原点を見出した安心感を得ることができた。それは、村上龍や村上春樹の文体が私にとって衝撃的であったと同時に、彼らの文体が私の読書遍歴の中で非系列的であることから不安と苛立ちを感じ続けていたことに対して、ひとつの解答を得たからである。
 はっきり言えば、「な〜んだ。村上龍や村上春樹は、庄司薫の真似っこなんだ」、ということ。
 庄司薫にセックスだの快楽だのを付け加えれば村上龍になり、暴力だの物語性だのを加えれば村上春樹になる。

 庄司薫の他の作品(薫くんシリーズ以外)を読んだことがないので、果たして庄司薫という作家がこれだけの流派でしかないのか、他にも書き得たのか私は知らない。
 ただ、「赤頭巾ちゃん…」より始まる5冊のシリーズを読むと、常に考え続けるという部分で自分と他人との違いを常に感じ続けざるを得ない(得なかった)「ぼく」という存在に、素直な共感を覚えることができる。
 小学校の時間に「道徳」として行われた授業の中に、それは作られた道徳であって大人達の子供への押し付けがましい理想であって、まことに滑稽なことであるけれども、その理想を自分の中に作り上げるのは全く別ものであるから、「道徳」で形作られたTV番組を見て友達と苦笑しつつも、苦笑してしまう自分がすれてしまっていると感じてしまって、何かを失ったという寂しさを思い、苦笑するのも強く肯くのもやめてしまう時の戸惑いがこの小説にはあるのではないだろうか。
 他人とは違うという自分を感じつつ、しかし、他人と同調するしかない自分を感じつつ、やはり、他人に対して感じる感情は自分のものであるということを感じつつ、そういう自分と他人という関係をいろいろな場面でさまざまに演じ変えなければならないという、大人社会への参入の掟を、「掟」として見てしまう「ぼく」の心と行動が描かれる。いや、庄司薫がそう感じてきた道筋がそこにある。

 文章に対しては、饒舌さが際立つ。
 人は饒舌であればあるほどものを考えることはできなくなる。喋っている間は人はものを考えていない。黙って考え、まとめたものを喋るときに、本物を言うことができる。
 しかし、「赤頭巾ちゃん…」の一連の饒舌さは、考えられた饒舌さ、冗長でしかあらわせない、性急にはあらわせない、何かを説明して、即、「うん、わかった」と返答されるとき感じる戸惑いを知っているからこそ、冗長な語りの中に沈ませなければ伝わらないであろう気持ちが、饒舌さに現われるのであろうか。
 渦巻く言葉の浪が、窪んだ中心を創り出す。中心があって渦巻くのではなくて、渦巻く現象の中で中心が自ずから浮かび上がってくる理の良さであろうか。

update: 1997/07/28
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