書評日記 第324冊
記号学1・2 ウンベルト=エーコ
岩波同時代ギャラリー

 記号学の総体的な読み方で「記号学」の2冊を読む。学問的に勉強するのならば他にもあるのだろうが、分量と内容の面白さの比はこの本がいいかもしれない。

 すべての学問が象徴を扱う上で、閉ざされた学問体系の中での隠語としての記号を定めるのは必須になる。記号学の立場はそのように捉えることが出来る。だから、一時期流行った(?)「オブジェクト指向」という言葉と同様に、記号学は形容詞として扱うことが出来る。
 記号学的な記号学という学問を扱ってしまうと、無限の脱却の連続に陥り、決して分類され得ない学問という無意味なものになってしまうので、そこは「記号学」という分野の境界を考慮した形で考察が進められる。
 つまりは、基盤をはっきりさせること。学問は学問としてまじめに勉強することに意義がある。

 シニフィエとシニフィアンの違いだけでも体得すると利益があるのではないだろうか。ひとつの事象に対して、指し示す言葉がある時、事象と言葉とは別ものである、ということを常に意識するようになると、社会学とか心理学が理解し易くなる。いや、実際に、社会学や心理学には「象徴」なり「社会」なり記号・典型・類型が存在するので、現実をそれの当て嵌めたり、逆に、それを現実に当て嵌めたりする作業が、あくまで「作業」を介在させなければ認識しえないものであることを再確認することは重要なことではないだろうか。……と、云いつつ、こういう風に書くと難しいし、訳が分からないと思う。だから「体得」なのであるし、だから、世の中はうまくいかない。
 様々な「常識」が常識という仮面を被った多数決形式の民主主義の主張でしかなかったり、情報の中で誇張されて変形されてしまった数学的なマジックでしかなかったりするように、信じられるものは唯一自分しかないと同時に、将来信じる可能性があるものはすべてであるということが解かるようになる。そこには、常識の偏りによる偏見が存在しなくなる。
 もっとも、情報の円錐の中で、すべての情報を網羅することができないのであるし、情報を選択し蓄積する場所が有限であるということから、人は何らかの偏見=個人的な記号を持たざるを得ない。すべてにおいて敏感になることはできないだろうし、すべてにおいて再考察を加えるほど人生は長くはない。
 だから、人は何らかの学問や社会の常識をもって、自分の記号を作る。
 それが自分と他人との認識の違いの原因である。

 氏も育ちも違う者達が、同意を至るにはどうしたら良いのだろうか。風土も習慣も違う場所で育った者達が、他人という垣根を取り払うにはどのようにしたらいいのだろうか。
 ただ、まあ、「馬鹿だから解かりません」と自らいう人に対しては、何も垣根を取り払う必要もないのかもしれない……か。

update: 1997/07/29
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