書評日記 第331冊
コインロッカー・ベイビーズ 村上龍
講談社文庫

 「限りなく透明に近いブルー」より3年間の期間を経て、「コインロッカー・ベイビーズ」は作られる。
 村上龍の言葉『金持ちになってヨットと女と遊びまくって、それでも小説を書きたい、という欲望が小説家には必要だと思う』……これは日本の文壇嗜好に過ぎない。永井荷風から伝わる「文筆家」の幻想というところだろうか?

 「ポップアートのある風景」を読み終え、「走れ、タカハシ」の裏表紙で私はへなへなになってしまっているので、現在の私は「コインロッカー…」が村上龍の一番である作品に過ぎないのか、つまり、これ以後も彼は惰性で小説を書くだけなのか、という疑問をぬぐえないでいる。尤も、「フィジーの小人」で多少なりとも復帰しているような感じはするのだが、島田雅彦に負けているような気がしないでもない。

 蓮実重彦が「小説を遠く離れて」で言及するように「コインロッカー…」は長編ではない。短編の組み合わせ、場面の繋ぎあわせに過ぎない。これは、村上春樹の「ノルウェーの森」にも言える……と富岡多恵子が言う。ただし、小説に対して作家論を問うのではなく、小説を求める側としての読者論を述べるならば、「コインロッカー…」は十分速読のできる斜め読みのできる小説であるとして褒めることができる。
 現代小説ではスピード感が大切になってくる。多分、映像の影響(映画や漫画)が強く残っていて、小説を読む時でも読む時間と情景を思い浮かべる時間が同じくらいでないと息苦しさを感じるのではないだろうか。やや説明的な文章、つまりは、だらだらと書かれたディテールの部分は、映画のパンを表わすと思う。ぐうっと右から左へ映像をパンさせる時の時間と、小説の中でぐだぐだと書かれるディテールは等しい時間性を持つのだろう。読者はそのディテールをざっと読み流すだけに過ぎない。多分、細かい映像を思い浮かべることもないと思う。それは、パンする映像の中に含まれる個々の要素をじっと眺めないことと等しい。斜め読みされたディテールは、斜め読みをするからこそ小説の中で必要な文章として書かれることになる。その小説として冗長な部分が、反ってスピード感を煽ることになる。そういう点で、「コインロッカー…」は分量として長いのであるが、結果として短編に等しくなる。
 短編は、Aを描くだけで良い。Aが位置する場所とAがAであるところの雰囲気を伝えるだけで良い。だが、長編となれば、AはBに変換される。場所も思想もAはBに変容していく。その変容の過程が長く描かれることは、読者の納得を誘う。それゆえに、小説世界のAからBの変換が、読者自身のAからBの変換を能動的に起こさせる。

 アメリカンなポップさが村上龍の特徴なのであるが、村上龍だけが奏でられる音ではないような気がする。「男流文学理論」で言及されるのであるが、そういう点で、村上龍は「文筆家ではない」。この人はコアを持っていない。ポップさだとか、アメリカだとか、快楽だとか、をスターとして演出されないと彼の小説が成り立たないのではないだろうか。
 それは多分、強姦されてしまった佐世保という土地で生まれ育った村上龍という人が持つ運命なのかもしれない。

 ただ、良く調べていないからわからないのだが、「コインロッカー…」以前には、映像を淡々と描写していくものはなかったかもしれない。面白い文体を作った功績は認めるのだが、それでけでは村上龍が「村上龍」であるということにはならないと思う。

 ミルトン著「失楽園」を合わせて読んでいるので、興味がそちらに行っている。ポーが読みたい。

update: 1997/08/04
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