書評日記 第330冊
青空ふろっぴぃ 細野不二彦
小学館

 村上龍著「コインロッカー・ベイビーズ」が出版された頃、細野不二彦は「青空ふろっぴぃ」を書いていた。
 それぞれの著者がそれぞれの作品を見知っていたかどうかは分からないのだが、社会現象として起こったコインロッカーへの捨て子が双方とも物語の発端であり根底を為していることは確かなことだと思う。

 「コインロッカー・ベイビーズ」は再読中なのであとで言及する。

 主人公トキオの名が、「コインロッカー…」の時男と同じなのは偶然なのだろうか……ということは、「青空ふろっぴぃ」の方が後か? ただし、トキオの場合は、東京の浮浪者達の間で育てられるという設定から、TOKYOから名を連想させるようになっているから、関連はないと思う。時男の方はどうかわからない。
 少年漫画の常道ということで、「挫折から成功へ」という道筋が与えられているのだが、捨て子&浮浪者という部分が全編に染み込むようになっていながらも、「明るさ」という部分を忘れないのがこの作品の特徴になっている。この辺は、少年漫画という前提があるからだろう。
 ミヤコという子が、女であることを理由にサッカーチームから外される。いじめられるキューピーっ子や、ヤクザの子。
 自分とは違うところで、ラベリングをされる。だが、いくら自分はそんなのではない、と云ったところで、ラベルははがれない。
 ミヤコが、不幸を「演じている」と気付くのは、トキオには親もなく全くの捨て子である、という更なる不幸を知ることなのだが、その結果として、社会(この場合はサッカーチーム)に表面的に従うことと、自分の何ものかとは、違うものであることを知り始める。
 この辺の流れの良さは、ある意味で、「男の子」、「女の子」というそれぞれの形式(細野不二彦の解決方法)を逃れ得ていないのは事実ではあるものの、現実社会への順応でありつつも、自分は自分であるところの意志を強く保つことに成功していると思う。
 この辺は、「さすがの猿飛」で培われている細野不二彦の理想の具現なのだと思う。

 最後の部分が、当時の流行であったサッカー漫画に陥っていしまうのは別として(この辺が細野不二彦の惜しい癖なのだけど)、コインロッカーの捨て子という社会現象に対して提示される細野不二彦の作品に対して、人はどのような感想を持つのだろうか。
 「世の中はそんなに甘いものではない」というケッタ糞悪い反吐の能書きしか言えない人は、自分こそがそういう社会を作っているに他ならないことを自問するのがよいと思う。

 幸せの形式を持たない人は幸せになれない。
 私が「コインロッカー・ベイビーズ」よりも「青空ふろっぴぃ」が好きなのは、これに他ならない。

update: 1997/08/01
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