書評日記 第333冊
ポップアートのある部屋 村上龍
講談社文庫

 ポップアートがポップであり続けるには何が必要なのか、と考えてしまう。それは多分、私自身が決してポップではないことから来る反感だと思う。だから、ポップであるという価値をポップであるということ自体に見出してしまうことに、私は不満を感じる。疎外感とそれが価値のあるものとして社会的に振る舞ってしまう苛立たしさ。
 それは、ポップに対しての価値を認めている行為に過ぎないことは重々承知しているのだが、自分自身がポップを演じたとしても決してポップには為れない自分を見出してしまって自己嫌悪に陥るのが落ちに過ぎないのだから、私は頑固としてポップさがポップさであるところの価値以外の何ものでもないことを主張し続けたい。

 アンディ・ウォーホールの映像は素晴らしいのは確実なことなのだが、アンディ・ウォーホールを素晴らしいと褒める人達が素晴らしいとは限らないし、アンディ・ウォーホールの「素晴らしさ」を知って素晴らしいと言っているとは限らない。
 だが、ポップであるということは、価値の本質を認めない、いや、価値の本質があるなしに関わらず、ポップであることになる。つまりは、様々な価値というものが、価値の本質に基づいて評価されることに対して、価値の本質を見極めることを止めてしまって、ただ単に踊り狂うことだけに集中するところにポップさの本質がある。
 それは、フェイクも疑似フェイクもごたまぜで、キッチュも疑似キッチュも混ぜこぜであることと等しくなり、人は人を眺める時に、かの人がポップであるかポップでないかと判別する基準を失う。すべてはポップであり、すべてはポップでないところに、ポップらしさというものがある。

 だから、「記号」の羅列がポップらしさを幻惑させる。さまざまな音楽用語の羅列や、酒の種類の羅列、とことんまで出てくる羅列の行列が、脳官を痺れさせる。
 ……そういう意味では、「ポップアートのある部屋」という作品は、ポップアート並べただけの部屋に見えるのだが、こういう言及はポップでないのですかさず否定されてしまう。
 その辺が、くやしい。

 ポップの振りは振りでしかない。だが、本物のポップも贋物のポップもポップというものが、本物と贋物のごたまぜになる空間を構築するのだから(むろん、構築した途端に逃げるにしても)、ポップはすべてを許容しようとすると同時に、確実にポップでないものを排斥しようとする。

 ただ、「アンチ」という点で、「ポップアートのある部屋」はいまひとつではないだろうか。それは多分、「もどき」ではあるにせよ、もどきにすらならない可能性は十分にあるのではないだろうか。

update: 1997/08/04
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