書評日記 第334冊
男流文学論
筑摩書房

 作家・富岡多恵子、社会学者・上野千鶴子、精神科医・上島○○の鼎談集。上野千鶴子のフェミニズム運動の一環。
 『文学界における女性の地位の向上は、女性作家の再評価と、不当な高評価受けている男性作家の再批評にある』
 吉行○之介、鳥尾○雄、谷崎潤一郎、村上春樹、三島由紀夫が再評価される。吉行○之介に対しては、けちょんけちょんにこき下ろされる。村上春樹は、現代の作家としての厳しい考察が加えられる。鳥尾○雄には、妻との考察。谷崎潤一郎は、正統評価と思える屈折した愛情への考察。三島由紀夫に対してはほぼ順当なホモ(ゲイ)の評価。
 男性である私にとって、決して不快な感じはしなかった。それは、『私は女性の立場でものを考えることができます』というような似非フェミニズムの言葉としてではなくて、男性の立場というものを女性の立場と比較対照化させた上で、改めてみずからの男性の立場というものを考えた時の内省からくる「肯定」である。
 自称フェミニズムの嫌らしさは、男性という立場から男→女という関係を慮るあまり、男→男の関係(同性という意味)を蔑ろにしているのではないか、という反省の無さにある。それは、性別はともかく、独立した人間として生きていく上でのひとつのモラルなわけなのだが……実はこの「モラル」は性別に関係なく厳しいモラルであるので、両方から嫌われる。つまりは、自覚的な人と無自覚な人に分別されるわけなのだが、社会というものは大多数が無自覚な人で埋め尽くされているので、自覚的な人は孤立するしかない。もっとも、それなりの恩寵はあるのだが、それは人類の中にある遺伝子レベルの淘汰としての恩寵であるので、表面的には不幸の一途を辿らざるを得ない部分も含んでる。感情的にもやりきれない部分が残る。

 文学なり学問なりというものは、男性性が含まれる。分別し切り離す作用は男性性の中にある淘汰から生まれてくる。時系列に並べられる歴史も男性性であり、数々の権力も男性性となる。
 ある意味では、「そんなことどうでもいいじゃん」という風な文学への対処の仕方が女性には残っているような気がする。現実的な家庭の姿こそがどんなに退屈であろうとも、それこそが「現実」の姿であるならば、文学の中に含まれる「追求」という男性性は、さほど現実的な価値は見出さないものに為らざるを得ない。やはり、かっこ悪くとも子供じみていても「生と死」しか与えられていない男性という立場を考えれば、特記されたこだわりはプライドと同様に捨てることができない。また、「プライド=生」であるので、プライドを捨て去ってしまえば、藻屑と一緒に違いない。これは、男性という性のヒエラルキーの高さに等しい。

 すべてが、「性」に関連付けられて語るのだが、所詮、セックスはセックスしている時の化学物質の高揚に過ぎないのではないか、と私は思い始めている。
 ただ、男性のセックス感というものは往々にして、文学的官能を逃れ得ない(富岡多恵子が言う『熟れた果実のしずくが…』のような)ところがある。それは、多分、人は世の中のある「座」に座ることを宿命付けられているからだろう。むろん、その「座」は、かの人の努力によって勝ち得るものだし、怠惰によっても勝ち得るものであることは確かなことで、大抵の無自覚な人は無自覚さのままに「座」に座らざるを得ないのだと思う。社会という大きさに脅えた時に、「座」に安住することを覚えたならば、「座」に安住するしかない生き方を選ぶだけなのだろう。社会の大きさを知る前に、すくすくと素直に育ってしまった人がひとつの悩みを抱え、更に宿命的な「座」を得るところに至るのだと思う。
 上野千鶴子の云う『もっと社会との付き合い方を叩き込んでくれればよかったのに』というのは同感である。

 「不当な評価」という用語があるが、果たして、どこまでが不当なのであろうか。名だたる批評家に誉められる小説家というものは、小説家自身ではどのように自らを評価しているのだろうか。もっとも、社会的な評価を受けた時には、資本主義社会の御褒美である金回りが良くなるのが常であるのだが、金を得たところで、どうしようもない人生だってあることを人は知りつつあるのではないだろうか。
 ……というのは、多分、喰うのに困らない生活をして来た私だからに違いない。両親も揃っているわけだし、ある意味では、不満のない生活をしているといっても過言ではない。
 だが、そのような客観的な幸福と自分の中にある幸福とは全く違うことを知ってしまった時、私は私自身が不幸のどん底にいることを知る。それは、無自覚な者が自覚的になった贖罪を背負わされることになる。

 作者にとって小説は書いた時点で完成してしまうものではないだろうか。あとは作品と読者の関係があり、直接的に読者が作者に何かを送ることは少ない。それが、孤独の作業ではあるけれども、孤独の中に自分を相手にして、ひとつひとつ作業を進めることの喜びを、自らの手で作品を創ることでしか自らを満足させえないことの自嘲を、秘めているだけではないだろうか。

 今の日本で餓死するのは難しい。だが、それでも尚、餓死したいと思う飢餓感こそが、何かを創らせる原動力となるのではないだろうか。
 それは、多分、一生、子供を産むことができない男性だからこそ思う悲哀ではないだろうか。

 ……とか書くと、富岡多恵子が「アッハハハ」と笑うわけだ。

update: 1997/08/04
copyleft by marenijr