書評日記 第337冊
光の伝説 麻生いずみ
集英社

 高校の頃、ナブラチロワのテニスに感動を覚えたことがある。ヒット&ボレーは彼女の戦法であり、それは彼女自身だったからだと思う。
 スケートで伊藤みどりが活躍した頃に槇村さとるは「愛のアランフェス」を描いていたのではないだろうか。伊藤みどりが日本の演技、日本の伊藤みどりを演じる時に、麻生いずみは「光の伝説」を描いたのだと思う。

 少女漫画の定番として、バレーものがあるわけだが、私にとっての定番は、アイススケートと女子新体操になる。新体操はユーゴスラビアがトップの国だった頃からのファンであって、夏は体操と新体操、冬はアイススケートをTVで見るのが楽しみだった。

 当然(?)、少女漫画だから「恋愛」が絡むことになるのだが、麻生いずみの描き方は他の少女漫画とは一味違う。新体操の栄光への階段を上っていく光という少女という題材はそのままなのであるが、その中にあるひとつひとつのエピソードが別の作品をバックミュージックとして流すことにより成立していく。これは、槇村さとるもそうなのだが、ストーリーを二重に固定していく。既存の作品をバックグラウンドにすることにより、作品に厚みがでる。読者側としては、前面にある作品と同時にBGMとなる作品も楽しむことができる。
 この手法はかなり説得力がある。もちろん、作品自体で独立し得ないような感じを受けるかもしれないが、そもそもが前代の作品を踏まえた上で今の作品が成り立っている背景があるとすれば、先に生まれている様々な名作を横糸にして、縦糸となる登場人物を動かしていくのもひとつの方法ではないだろうか。

 最近の純文学ブームを踏まえて「文学界」を読んでいたのだが、多くの作品が、背景を全く使わずに作品を作ろうとして無理がたたっているような気がしないでもない。別に何も一から作ろうとしなくてもいいのではないかと思う。また、一から作ってしまっているようで、あちこちが抜けてしまって、結局のところ全体的に薄っぺらな純文学もどき・純愛もどきの作品が出来てしまっているのではないだろうか。
 バックボーンを既存の作品から取り入れるということは、実は既存の作品に喰われてかねない。つまり、「真似っこ」に過ぎなくなる。「新釈遠野物語」がどうしても「遠野物語」を脱し得ない退屈さを含んでしまうように、真っ正面から捉えてしまうのは、いささか正直すぎるような気がする。
 漫画の場合、ページ数も限られているから、背景を埋めることに既存の作品を使って背骨を整えるのは有効な手段のように思える。また、麻生いずみや槇村さとるは、この手法の良さを十分に知っていると思う。
 そういう意味で、創作者は知識を必要とすると思う。既存の作品をたくさん読むこと・知ること・そういう手法があるということを知るべきではないだろうか。また、読者が能動的な読者へと変質するためには、作者の提示するような作品をわずかではあろうとも知っている必要があるのではないだろうか。それが、「教養」というものだと思う。インテリゲンチャとまではいかなくても、作者の「仕掛け」を共に楽しめるような雰囲気をあらかじめ知っておくのも読者の役目ではないだろうか。

 「光の伝説」で、光は日本の演技を求める。光自身の演技を模索する。何が自分であるのかを模索する。
 私にとって、この作品は、自分を見失い始めた時に見つかる作品である。

 余談であるけれど、麻生いずみは悲劇癖があるので困りもの。なんで少女漫画ってラストの部分に悲劇を持って来るのが多いのだろうか。あの渡辺多恵子でさえ「はじめちゃんが一番」で一人殺している。この辺は謎。

update: 1997/08/06
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