書評日記 第338冊
マルジナリア 澁澤龍彦
福武文庫

 「マルジナリア」とは、本の余白のこと。本を読んでいて気が付いたことを書き込む場所。だからこの本も文章の余白が十分にとってある。私の場合、本に書き込むことはないので、なんとなく損をしたような感じになるのだが……。

 澁澤龍彦自身が言っていることだが、彼は「サド裁判」で一躍有名になった。ずっと後代に生まれた私にすれば、澁澤龍彦という作家を知った時には既に「澁澤龍彦」という名声が出来上がっていたので、彼自身の本当の価値がよくわからないでいた。マルキド・サドの魅力は、今の人達ならば十分に楽しめる要素を持っていると思う。いわゆるサド文学を日本に紹介したという澁澤龍彦の恩恵もそうなのだが、サドという後ろ盾を得た文学という分野が、新しい遊び場を備えたというのが本当のところだと思う。
 文学をイコール人生にする上で十二分であるのは、様々な才能溢れる人達が言葉を使って自分の能力の限りを尽してきた、という前提があると思う。それは、科学でも政治でも何でもいいのだが、今の私を一番生かしてくれるものが「小説」というものならば、其処に骨を埋めたいと思っても不思議ではないと思う。
 澁澤龍彦のフランス文学に対する態度は、非常に真摯である。
 勉強家であるところ、かつての「文筆家」と呼ばれた人達が酒と女とに明け暮れる江戸文学の遊楽に殉じるのではなくて、「学者」ともいえる形でひとつひとつの文学を紐解く姿は、一時科学を信奉して(今でも私の内では「科学」は信奉に値するのだが)「研究」という形で科学へと純粋に耽溺しようとした時期と同じ感情がある。子供から見る大人への憧れをそのまま具象化してしまった人が澁澤龍彦ではないだろうか。

 「マルジナリア」は読書メモという形で残されている。
 安野光雅の「エブリシング」のような感じ。ただ、さほど一般読者を意識しているわけではなく、詳細は省かれている。しかし、フランス文学やサド文学の周辺を巡っていれば確実に出会うであろう、解かるであろう思想が過不足なく書き連ねてあるような気がする。
 「思考の書庫」というところだろうか。
 
 泉のように本に出会ったからこそ知っている豊かさを感じる。
 「知的」という用語がぴったりする。
 インテリジェンスというものはこういうものだと思う。知っていればぴったりの言葉を本を言うことができるという適切さ。やはり、語彙の量は多いに越したことはないし、たくさんの用例を知っているにこしたことはない。
 卑近な例を挙げれば、20Wのアンプと50Wのアンプの音は、家で5Wのヴォリュームで聞いている私にもはっきりと解かる。その余裕と巧みさが備わっているのだと思う。

update: 1997/08/12
copyleft by marenijr