書評日記 第339冊
文学がこんなにわかっていいのかしら 高橋源一郎
福武文庫

 インテリ源ちゃんの2冊目。とはいえ、文芸批評だから、作品とは言えないかもしれない。
 松苗あけみの表紙に釣られて買う人は多いと思う。
 どれだけの人がこの本を通読したのだろうか私は知らないのだが、トンデモ本と呼ばれる疑似科学を学ぶよりも、文芸批評なり現代批評なりを読んで遊べるようになるのも、またひとつの「豊かさ」だと思う。……ただ、まあ、その「豊かさ」を共感できるか否かは別なのだが……。少なくとも、私は共感して欲しいという意味でこれを書いているわけ。

 「純文学」という分野が、トツトツとした文章から脱却し始めている。SFやらミステリーやらに押し潰されそうになった純文学は、自らの殻を破ることにより純文学の世界を世の中に押し進めようとしている。
 ……と、いうのは多少おおげさかもしれない。SFであれミステリーであれ、小説には違いないし、文学的な要素は持っているし、文字と言葉で表現してあればすべては「文学」なわけなのだから、昨今の純文学は、古い純文学と新しい純文学に分離してしまったに過ぎないと思う。俵万智が新しい短歌を作っていても、古い形式である古語を使った純然(?)たる短歌の世界が崩れないのと同じことだと思う。だから、文芸雑誌にはトツトツとした小説が大半。
 私の場合、「文学界」と「群像」を読んだのだが、「すばる」の方が読み辛い。漫画とか挿し絵とかは返ってない方が文芸雑誌としてすっきりするような気がする。漫画は漫画雑誌で読むのがいいような気がする。

 「芸」を知ること。「サーヴィス」精神を持っていること。また、知っていること。
 目の前にいない人にどのように語り掛けるべきなのか?
 読む人はどのような好みを持っているかはわからない。だから、自分の面白いものを面白いと感じるまで突き詰めることが必要になる。「文学が…」に含まれる様々な文体は、きちんとツボを押さえていると思う。
 自分勝手に笑わないこと。
 通俗ギャクに落ち込まないこと。
 内輪・楽屋落ちにしないこと。
 一度云ったことは撤回しないこと。

 雑誌や本の場合、作者から読者への伝達は一方通行になる。また、読者から見る作者像は読者側からしか判断できない。同時に作者の提示する作品も読者のレベルでしか判断され得ない。
 作者は読者のレベルをどこに置くのか?
 私が一番腹が立つのは『あなたはこれを知らないでしょうけども、こういうものがあるんですよ』という言い方。その科白を使う人は、相手を下に見ている。決して対等ではないし、逆に言葉を返したところで下から上への反論にしかならない。逆に云えば、それを知っていたら、どうなるのか。話のレベルはそこで膠着状態に陥る。
 論理なり真実なりコアなりは誰にも言葉にできるものだと思う。それを理解できるかどうかはその人の生活観に関わるものだから、不可能であっても仕方が無いことだとしても、誰でも理解できる可能性を持っている。また、理解できれば誰もが自分なりの解釈と自分なりの言葉でもって理解できていることを示すことができると思う。
 単なるテクニカルタームを濫用するのは理解していない証拠であって、噛み砕くことのできない弱さを露呈している。
 作者は自分と同じ場所に読者を据えれば良い。自分を相手に話してみればそれでいいのではないだろうか。自分に正直に嘘を付かずに話せば、一度云ったことを相手が分かっていないからといって撤回してみたり修正してみたりするのは、一番最初に嘘を混じらせてしまっているからではないだろうか。また、その辺の曖昧さを曖昧さと知らずに提示し、指摘された瞬間に考え始めるということをやっているだけではないだろうか。
 そういう意味で「文学が…」は、すぱっと言い切るところが快い。
 柄谷行人の「探究1・2」もそうなのだが、自らの追求方法をみ自ら信じるがままに実行している。それが、結果的に間違ったところに至ろうとあまり関係はない。正しい場所に至るには正しい追求の仕方をすることでしか成し得ない。だから、自分にとって一番正しい方法を見つけることが、一番良い結論に至る唯一の方法になる。

 「文学が…」は、人への伝達を疎かにしない気合を感じることができる。だから、「日本文学衰退史」も私には面白いのかもしれない。

update: 1997/08/12
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