書評日記 第340冊
安部公房の劇場 ナンシー・K・シールズ
新潮社

 作者・ナンシー・K・シールズは、安部公房の演劇を見続けてきた人。その人の目から劇作家としての安部公房を語る。
 他に、ドナルド・キーン、田中邦衛。

 『スーザン・ソンタグは女に嫌われていると思う』
 この科白を読むまで、ソンタグを男性だと私は思っていた。彼女が作品に対する批評の仕方として女性であるからこそ「官能的な」の部分に達したのだとすれば、まことに当然な結果なのかもしれない。ただし、私は、女であるから皮膚感覚でもって思考・嗜好を諮詢することができるとは思っていない。私個人としては、山田詠美の「ベットタイムアイズ」に触れ以来、「触感」というものを慰し聴きし続けている。むろん、この「触感」に込められる感情は私個人の歴史から来ている精神障害に来ているわけなのだが、少なくとも、子宮の無い男であっても感覚的に考えることは可能であることを実現したいと私は思う。

 久し振りに安部公房に出会うことができたような気がする。「方舟さくら丸」・「カンガルー・ノート」・「死に急ぐ鯨たち」を彼の死前後という時期に再会して以来だと思う。
 高校の時に「M/Tの森のフシギの物語」を読んだころに私と安部公房との最初の出会いがある。理系の作家という読み込みもあり、彼の数学的な知的さ完璧さ計算された文章の緻密さに惹かれた。それは、「吉里吉里人」の井上ひさしや筒井康隆の毒のあるパロディとは全く別の「理系」ならではの感覚である。数式が美しいと思い、数学的な問題をひとつひとつ解き明かす時にある理の良さが、安部公房の小説の魅力である。

 実は、この本を読むまで安部公房が劇作家として名をはせていることを私は知らなかった。作家としての安部公房の魅力は、演劇の中の構成力と同時に培われたものだとすれば不思議ではない。また、小説の中の科白が緻密であり各々の科白の組み合わせが「組み合わせ」として呼応している部分に安心できるのは、彼の演劇に対する完璧さを求める態度であったとすれば、私の小説の読み方は正しかったのだろう。

 カフカを読む前に安部公房に接している。カフカに接した時、安部公房のような、と思ったのは偶然ではなかったと思う。ただし、「数学的な美しさ」を安部公房は備えている。それは理系である私だからこそ思うのかもしれない。

 彼の小説が「小屋的」であるのは、そういうバックグラウンドがあったと思えば納得が行く。決して劇場から外には出ない。小説の中の閉鎖空間は、劇場の舞台・観客席を含めた劇場の小屋という閉鎖空間と等しくなる。映画的に映像的なものではなくて、演じるものと観るものとが等しくなる、一体になるところの安心感・平等感・非上下感というものだろうか。
 平等であるためには、観客・読者は思考することを要求される。単に見ているだけというTV的な受領では決して得られることのない快楽が現出される。
 ある意味では、インテリゲンチャ的な浮ついたテクニカルタームの乱発に過ぎなくなる危険性をこれらの小説は持っているものの、ひとたび読者・観客が彼の小説・演劇を楽しむべき思考形態とそれらのバックグラウンドを共有し始めた時、単なる「ドラック的快楽」ではない自分でも創り出すことのできる創造性ゆえの豊かさを感じる・共有することができる。

 実験的な要素は強いのだが「これが前衛なんです」と主張するような理解されない一人よがりの楽しさではない。

 文系的な小説の極致であろう随筆・散文(小説家自身の魅力が人間と小説家との人生において一体になったところに出来てくる文章とは限らない産物)とは違った、理系的な小説の極致が安部公房にはあると思う。
 数学を楽しむのは、数式を解くという事実が大切だということ。
 「差異と反復」は「積分と微分」の教科書を参考文献にすれば80%以上省けるのではないだろうか。

update: 1997/08/13
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