書評日記 第345冊
小説の方法 大江健三郎
同時代ライブラリー

 「小説を書く」ということに対して人がどういう考えを持っているのか私はよく知らない。ただ、自分で小説(乃至は長い文章)を書いてみて解かったのだが、自分が「小説」に望んでいる部分をそのまま描き出すのは非常に難しいということだろうか。あと、自分の語彙量が極端に少ないことに気付かされる。20、30年選手のプロの小説家達と自分の語彙量を比べるのは傲慢はなはだしいのかもしれないが、「決して定型表現に流されない」ということに気遣い始めると、自分が如何に定型表現=物事を捉える時に余所様の考えをそのまま持ってきてしまうこと、自分なりの考えをひとつひとつ紡ぎ出さないことをしてしまっていたかを気付かされる。
 もちろん、文体だとか小説としての形式だとかを気遣うのも「プロの小説家」としては必要不可欠な要素になる。これは「プロ」である意味として「小説を書いてご飯が食べられるようになる」という資本主義的な要因を孕んでいるものの、どうやっても生きてけるであろう現代という日本社会にて「どうやって生きていくのか?」という積極的な疑問を設問を解決することに一生を費やすときの道具を得ることになる。

 果たして、私は恵まれているのだろうか?
 フリーターと称する無職な人達が溢れかえる。「職」を得るということは、将来的に数十年間に渡って自分を表現する場所を得ることになる。本来の意味では職人になる時の修行があって、その職を披露することで何がしかの相互扶助があって金を得て生活を営んでいくはずなのに、会社員(サラリーマン)という漠然たる職が報酬としての金銭を「生活」とは離反したところに生み出してしまったのではないだろうか。
 どう考えても日本という国は豊かである。明日喰うものに困らない生活をほとんどの人が続けている。だが、貧困はなくならない。また、金銭的に豊かであればあるほど心の貧困はひどくなる。また、心の寂しさを蔑ろにしだす。今という時代が豊かなのは、歴史的な蓄積があったからこそ豊かであるに過ぎない。だから、今という時期に蓄積を行わなければ未来は決して豊かにはならない。今の豊さだけを満喫するだけで、豊かさを消費するだけでいいのだろうか、と思う。むろん、そういう感情は未来に何かを残そうとする遺伝子の働きに過ぎないのだが、私はこれに殉じたいと思う。
 プログラマという職を続けるのもひとつの手段である。どういう経緯を辿ろうとも私は老人になるだろう。年老いると思う。辛い人生ならば、自分で成し遂げるところの辛さを満喫したい。そうして願いが叶うことなく客観的には人生を棒に振ってしまったような感じになってもいいと思う。少なくとも、私は私の人生を生きる時に一番私を感じ続ける人である。だから、私の思う通りにするのは私しかいない。私を動かすのも止めるのも私しかいない。

 私は漫画と小説によって育てられた。だから、漫画家や小説家になりたい。そんな素朴なところが私の小説家への出発点でもあり、今でもそう思っていることである。
 人はなかなか動き出さない。待つことは十分に必要である。それはただ待っているだけではいけない。道具を揃えること、道具を磨くこと、道具の使い方を覚えること、いろいろやることがたくさんある。

 私は本に何を求めているのだろうか?
 求めているものを書き付ければいいような気がする。少なくとも私自身、そして私と同じような苦しみを持っている人は、共感してくれると思う。
 それは、私にとって住みよい「環境」を創り出そうとしているに過ぎない。これも「仲間を作ろう」とする利己的遺伝子の働きに過ぎない。本能とはこういうものなのだろうが、少なくとも、数々の浪費行動に同調はしたくない。わずかな消費から、たくさんの生産を行なうのが、生物の原理である。

 宇宙は局所的な秩序とほとんどの無秩序に進む。全体としてはエントロピーは増大する。しかし、局所はカオスの縁として強烈な秩序・効率を生み出そうとする。

 自分の中の科学的知識(特に数学と物理学)への関心(単なる好奇心ではない)は私自身を構成している。心理学や文学や哲学や社会学に突き合わせてみる。
 ほとんど皆が同じことを示している部分がある。離反しない共通の部分。
 『ζ関数は面白い』というのと『足は性器の延長である』というのとが私の中では同居する。

 そう、積極的な読者を対象にしたい。決して、消費ではないことを目的とした読み手。スタートラインがあって、一歩でも二歩でも前に進むことを望む人達がいる。
 知識は道具に過ぎない。知的になるのは、その道具を使いこなす頭が必要になる。どちらが無くても物を創ることはできない。道具はたくさん揃える方がいい。足をすくわれないように自己を鍛えるべし。

update: 1997/08/24
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