書評日記 第346冊
ゆっくり東京女子マラソン 干刈あがた
福武文庫

 女性の作家の小説を読む時に私は気構えをしていると思う。山田詠美や内田春菊の作品に触れる時、「女性の作った作品だから」という男性=自分の立場にはいない反対の立場としての主張を聞き届けようと身構えてしまう。倉橋由美子や長野まゆみ、松浦理恵子、柳美里は彼女達独自の世界を作る。独自の世界を構築するということは作家として職人として自己として独立した自分を形作り発表し続け自己の世界を模索する人達にとって必要不可欠なものとなる。だから、心が独立しなければ自分の世界を表現することはできない。だが、ある意味で自分のみの世界で独立してしまいそこに止まってしまう対話の無さを感じる時がある。作者と読者の対話を楽しむことはできるのだが、作者自身の生活が見えてこない。特殊な生活観を持つことは特殊性を帯びる作家という職業にとって必須のものかもしれないのだが、人として人間達の世界の中に生きることを求めれば、作家とはいえ誰かとの関わりを持つことになる。それは、「文壇」という文学を小説を中心とした作家だけの世界ではなくて、普通の人が普通に生きていく時に進む道のある世界がある方が「人」としていいような気がする。
 干刈あがたは自らの離婚という体験、そして、男の子を二人持つという現実に忠実な作家だと思う。云うならば「私小説」というジャンルを与えられるのだろうが、男性作家の私小説が妻や交友関係や社会的な関わりの中に自分を置いてしまうのに対して、彼女の場合は母親という立場・片親という立場を強く意識して(またはする)小説を創る。

 なぜに「離婚」にこだわるのかと云えば、彼女自身が離婚の体験者だからに過ぎない。しかし、離婚という社会的な問題が往々にして夫と妻という問題、または、残された子供という問題、生活という問題、慰謝料という問題、にそれぞれ分離してしまって各個的にしか対処しないことに反して、干刈あがたの描く私小説的な現実は、すべてをひっくるめて女性=干刈あがた自身と子供達がどうやって生きていくのか、ぐずぐずと止まっているわけではなくて、まずは目の前の問題に対してどうやってひとつひとつを解決(それが次善、それ以下であったとしても)していかなければならないのか、すばやく対処しなければならないのか、右と左しかない現実にどうやって対応するのだろうか、という現実があるが故のの一番のむずかしい部分をむずかしいままに描き出してくれる。
 小学生は小学生なりに問題を解決して行こうとする。親の倫理観と学校の倫理観、自分の中のわだかまり、小学生の世間、仲間達、いじめっ子といじめられっ子の関係、現代という母親達とは違った価値観の世界、そんな複数の社会の中で、自分というものを様々な「現実」へと対処させていく。
 私は母親に小学5年の頃、母親に対して「どうして普通に育ててくれなかったのか?」と責めたことがある。その「どうして」の中には、もっと人のことを押しのけるような無感動で無自覚で人を人とも思わないようないじめが出来て、悪口を後悔なく口に出すことができたり、他人のことを無視することができたり、悲しい出来事はすぐに忘れるようなことができたり、そういう世間的な普通の人(子供)に育ててくれなかったことを恨んだ結果が込められている。解かる人だけが辛いということは、解かる人だけにしか解からないといジレンマを抱え込む。子供という弱者の立場、優しいことによる弱者の立場、そういうものを捨て去ることができたならばどんなに幸せなことだろうか。たとえ、それが白痴の所業であったとしても。
 騙されたという気持ちが無いでもない。しかし、こういう自分というものが私のとって一番であるし、そういう人間というものが私にとっては一番敬愛できる存在なのだから、自分を愛するためにはそう生きなければならないのであるし、そう生きてこなくてはならなかったのだ。

 干刈あがたという作家は、きちんと大人でありきちんと母親であった人である。作家という職業以前に、十分に物事を知ることが出来た人、悩むことができた人、現実に対処することが出来た人だと思う。
 描き方だとか文体だとか女性主張だとか権利だとかウーマンリブだとかフェミニストだとか男性からの女性観だとか中世的だとか、そういうくだらない思想(運動をするためだけの主張のための思想)とは全く別のところにある「人間性」というものを干刈あがたは持っていると思う。むろん、彼女は女性の地位向上に一役かっているのだろうし、そういう気概もあったと思う。だが、何よりも「二人の男の子の母親である」という立場、それが彼女自身の抱える子供に対しての一番大切にしなければいけない部分、イコール彼女の生き方、というものが見えてくる人だと思う。

 女が息子を育てる時、母親である彼女は男性を演じる。しかし、それは女の中にある男性に過ぎない。だが、女を女が見た時の小狡さ(同性ゆえの狡さ)を知った上で、将来ほんものの男になる息子の目の前で女性が男性を演じる時、息子は複雑な意味を兼ね備えた男性を見ることになる。それは社会的な男=父親とは全く違う。
 農耕民族であった日本人はそもそも男女の力の差を誇示するようにはできていないと思う。かそけき女性も存在しないし、マッチョな男性も存在しない。私の中で「大和撫子」という用語が占める意味は「不屈な精神」に等しい。従順さは服従とは違う。暴走を押さえる諌言にこそ大和の誇りがあるような気がする。

 社会は確実に女性化に向かっているわけだが、どうも「女性らしさの主張」の部分にのみにこだわっているような気がする。力の強くなった息子に立ち向かうだけの腕力を持とうとしない将来の母親は、そそと付き従う中に服従の卑らしさを忘れてしまっていると思う。銃後の母。
 

update: 1997/08/28
copyleft by marenijr