書評日記 第347冊
河童が覗いたトイレまんだら 妹尾河童
文春文庫

 「少年H」が出版されて以来、妹尾河童を見る目が素直になれなかった。町田町蔵が町田康に名を変えて(戻して)きた頃、出版界は盛んに「少年」の面影を追い商品化しているようで嫌だった。エヴァンゲリオンというアニメが碇シンジという少年を社会現象として披露させたの同時であったこともその要因でもある。
 私にとって少年とは幼き子ではない。童子という何も責任のないところにある被庇護でしかない対象物(時として玩具)ではない。「青春」という時期を想い出の中の青春として貶めてしまうのは大人達の視野の狭さを意味しているだけで、実際に青春期を過ごしている者達には「青春」という時期に無謀にも自分を無にできるような赫奕さがあると思う。もちろん、それは私にとって年齢的に少年期も青春期も過去のものになってしまったから言ってしまう一般的な戯れ言なのかもしれない。だが、物事に真剣に打ち込むことこそが自分の人生の中心であり、それを確固として自分の中にもっておくことの正しさ、そして無謀さを体力の限り続けていける時期といものは、結局のところ「若さ」の為せる業ではないだろうかと思う。逆に言えば、世間態を気にし始めて、世間と融合することに苦を感じなくなった時、孤立することに苦痛を感じ始め、生きることに疲れを感じ始めてしまって、ゆらゆらとしたうつつよの爛れの中に希望とは決して違う安住の中に諦めとも安堵ともつかぬ日々を送ってしまうことが、「若さ」を失ってしまった人のすることではないだろうか。
 そんな自分でも「青臭いな」と思える理想の中で、「少年」という用語を懐古の中に収めてしまうことに、未だ私は反発を感じる。
 そんなところから、大人の立場から懐かしむだけのために「少年」という活字を使って目を引かせてしまう出版業界の姿と妹尾河童という人物に「少年H」というタイトルを見た時以来、素直な気持ちでいれないでいる。

 実のところは、妹尾河童は「若く」はないこと、今の私は知った。年齢的に決して若い部類ではなかったことを知った。だから、彼が懐古として「少年」を見るのも今では許すことができるような気がする。老年期から少年期を懐古するのは、老齢者の特権である。むろん、懐しいという感情のみが許されるのだが。

 以前読んだ彼の著作はホテルの話だった。欧米の安ホテルに泊まる。部屋の中を描き出す技量とそれに伴うだけの観察力は大したものである。舌を巻くまではいかない。私にも「転写」と呼べるほどの記憶力がある。情景を情景のままに記憶する。多分、絵を描く者の共通の楽しみが彼と私にはあると思う。材質の暖かみ(コンクリートでも暖かいものがある。もちろん冷たいものもある)を知っている人ではないかと思う。ものを「もの」として捉えることが出来るからこそ、ひとつの絵の中に様々な「もの」を描写し尽くすことができるのではないだろうか。

 トイレだから糞にまつわる話になる。トイレは文化水準を意味するから、トイレを中心にして話ができる人は一般的に頭が良い。ただし、昨今では糞尿学(スカトロジー)という用語が一人歩きしてしまったために、うんこの話をしたからと言って知的だという証拠にはならない。だが、どこにでも転がっている人としての知的さ・おもしろさ・豊かさは糞の中にも息づいているのは確かなことだと思う。
 今、辺見庸著「もの喰う人びと」が文庫本になりベストセラーになっている。喰うことに関して貪欲であることをルポルタージュとしてまとめていったものなのだが、私に云わせれば、ルポ的な深みのない文章に仕上がっているだけの本だと思う。ルポルタージュとしての「事実」に関する描写も薄いし、事実から得られる「真実」の姿も薄い。結局のところ、どっちつかずのまま手短にまとめられた文章から何を知れというのかと思う。少なくとも「もの喰う人びと」を書く辺見庸の思慮は浅い。
 となれば、「トイレまんだら」の方の妹尾河童の思慮は深い。常に観察眼だけに徹する姿は、誤解も多く含むかもしれないが、読者の想像(個人的なバックグラウンドを元にした読解力)を逞しくさせる余地を多く残している部分で興味深いものに仕上がっていると思う。
 ある意味ではどちらも蘊蓄話のとりまとめなのだが、妹尾河童に軍配を上げたくなるのは、喰えない面白さでは糞の話が一番と思っている私だからかもしれない。

 ひとつ苦言を呈するならば「トイレまんだら」は前半の方が楽しく、後半になるとわざわざスカトロジーへと話を移行させてしまうつまらなさがある。「特殊」を旨とする芸能分野では糞尿学はひとつのステータスになる。「私は一般的ではないのだ。スカトロジーが面白い、うんこの話を延々と続けることができるほど特殊な人物なのだ」という一般的な傾向に傾いているような気がしないでもない。前半の方が専門家が多いからかもしれない。専門家が自分の栓門分野の用語を使って自分の分野なりの糞尿学を披露するところが面白いのだと思う。

 「洋式の便座が下がっているかどうかで、その家で女性が大切にされているかどうかがわかる」という一文があるが、うちの家の場合、「便座や蓋をあけっぱなしにして置くことは、だらしがないことだ」として、下ろしておくのが当然だった。だから、私は公衆便所の洋式トイレでは便座も蓋も下げておく……のは当たり前か。男の場合、個室に入る時は必ず便座を必要とする時だから。

 週刊文春89年から90年までの連載。

update: 1997/08/29
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