書評日記 第348冊
僕が20世紀と暮らしていた頃 野田秀樹
中公文庫

 『下手な小説家より上手い』という形容詞があるけれどもあまり妥当ものとは思えない。下手な小説家は下手な文章しか書けない。文章の上手い人はプロの小説家であろうとプロではないアマチュアであろうと関係なく上手い文章を書く。
 野田秀樹という劇作家を初めて見知ったのは5年前(だったか?)NHK教育TVで演っていた「野獣降臨」だと思う。夢の遊眠社名義だったと思う。だたし、92年に夢の遊眠社を解散してNODA・MAPを設立しているから、ほとんど最後の頃だろう。

 2035年に野田秀樹が80歳という想定であるから、この本を書いた時(93年)に彼は38歳ということになる。となると野田秀樹は若い部類の劇作家になるのだろう。

 30歳の私が子供の頃を思い出すのとほぼ同じ情景が彼の想い出の景色である。単なる感傷話に陥らないのは解説で俵万智が語るように「演劇人」ゆえの演出を心得ているからなのかしれないが、私に言わせれば演出をこなすだけの知的なバックグラウンドと記憶とを混ぜ合わせるだけの技法を彼が心得ているからだと思う。むろん、誰でも共有しているであろう(子供時代を単なる想い出として捨て去ってしまっている人でなければ)時期と懐かしいのものたちへのノスタルジーは、そのままイコール現在に生きている野田秀樹の半身を占めているものと考えられる。ひとつの文章の中にひそむ懐古主義のノスタルジーと自分の中に抱え込むべき大切さをあわせもった部分が頬を赤らめるほどの共感を呼び覚ます。
 「ああ、そう、ああいうこともあった。そうそう、こういうこだわりがあった」という様々な出来事を今の自分も同様にして大切にできること、そして、「どうしてそう思ったのだろうか」と分析してみせること。今という時代は決して今はじまったものではないということ。昔があって今というものがあって、その辺を忘れないことが意外と重要であって、今という時代が昔になってしまった時に、昔のように心に残る出来事・ものをひとつひとつ鑑賞していきたいということ。そういう日々を日々として垂れ流しにしない生き方というものが野田秀樹の中にあって、そしてこのエッセーを創るに至る。
 野田翁が語る分析にあるちょっとしたウイットが私がこの作品を上手いと誉める理由。おもしろさというものはこういうものだと思う。

 手法として、翁(または媼)が孫に昔話をするという形式は珍しくない。蘊蓄を垂れたり説教をしたりする離れた立場を確立するには容易な手法である。「老人−子供」という世代差が生む絶対に折り合わない部分と、どちらも大人社会からのはみ出し者(生産しない者)である立場としての同類意識は、同一の視点を得るのが容易い。それぞれの立場が社会的な利害とは関係ないところにあるからこそ、素直な視点を得ることができる。子供は未だ常識を知らず常識に添って考えることをしらない「無垢」を持つ。老人は物事を見知ってきて大人社会の通念が変容(20世紀から21世紀へ)しているものの人として変化できない部分である子供時代を抱え込んだ個人的な立場を作る。
 加賀乙彦著「永遠の都」では時田医師という人物が加賀乙彦にイコールになる。時田が語る思想は加賀乙彦の個人的な立場と思想と歴史と年齢を逃れ得ない。それが心地良いのは加賀乙彦という人物が心地良い人なのだと思う。司馬遼太郎に似ている。
 若い人が老人を演じる時に違和感を感じてしまうのは、演じられている老人の考え方が新しいことである。語り口は老人らしさを装っているが、決して老齢者のそれとは異なる。むろん、実際の老齢者の語りと同じにしなければいけないわけではない。そこにあるのは作者からみた「老人」の形式が出てくるわけで、年齢的に上である(当然!)老人を演じるときに自分の中にある「老人」をどのように演出するかに人としての深みを求められるに過ぎない。厳しい言い方をすれば、老人の口調だけ真似をしてもうわっつらの老齢者を偽装しているだけにすぎなく、作者の浅墓さを露呈しているだけに過ぎないことが多い。
 老齢になると、思想が枯れてくる。枯れた思想は自己陶酔的な躍動感はないものの個人的な歴史を背負っているどっしりとした重みがある。すくなくとも、老人の科白にはかの人自身が背負ってきた人生の重みそのものがある。安定感のある思想。
 だから、野田秀樹の語る老人の言葉は、横田順彌の語る老人のように「軽さ」を思わせる。しかし、その軽さは作者が年齢的に若いゆえの「軽さ」であって、彼(野田秀樹または横田順彌)自身の軽さを意味しいるわけではない。高橋和巳の語る老教授の思想が若々しいのと同じ。歴史的な重み、年期というものはやはり年期を経て培われるものなのであろう。また、若い人は思想的に柔軟である。もちろん、柔軟でない若者はいるのだろうが。
 その「年期」を野田秀樹は巧妙に演じる。若い頃の森繁久彌が演じる老人というものと同じ意味を持つ。「年期」というもの「老人」というものを演じる時には自分の中にある影を自覚する必要がある。

 人は野田秀樹のように昔を懐古できるのだろうか。
 愛すべきおかしみがあると思う。

 むろん、老人趣味である私だからなのかもしれないが。

update: 1997/08/30
copyleft by marenijr