書評日記 第352冊
地下鉄のザジ レイモンド・クノー
中公文庫

 1959年フランスの作品。やっぱり大毎地下で映画を見ておくんだったと悔やむ。
 なお、大貫妙子に同名の曲がある。明らかにこの本を元にしている。私と「地下鉄のザジ」の曲の出会いは「モモ」よりも早く、大貫妙子の「動物パズル」の頃である。

 『抵抗文学の似非ヒロイズムと実存主義のお説教調で慢性憂鬱病におとし入れられていた読書界が、「地下鉄のザジ」のドタバタ喜劇調と、女主人公ザジが連発する〈ケツくらえ〉の名科白に−』の解説で内容は十分に伝わると思う。

 表面的なインテリゲンチャをごっそり抜いた「薔薇の名前」のようなものではないだろうか。もちろん、ウンベルト・エーコは記号学を熟知した上で、文体という作法を模索していたわけだが、レイモンド・クノーの場合は、小説を生のままで食する豪快さを残すが故に直接的な饒舌さに走るだけで十分だったのかもしれない。哲学的でもなく教養的でもなく、ただただ漫画ちっくに展開される流れだけを楽しめば十分であって、作者の「芸」を鑑賞するところの心地良さがある。
 映像的なものを小説に持ち込むのではなくて、小説的な手法を小説のままに入れ込んだ面白さ。だから、状況説明的な文章は皆無であって、ただただ会話だけで綴られる。言わば、いま的に云えば「漫才的な可笑しさ」なのだろうが、こう時代を経てしまって、饒舌さというものが分析されてきてしまうと、「地下鉄のザジ」は当時とは全く違った側面を強調させられる。
 つまり、様々な哲学用語を詰め込んで、意味ありの文章も意味なしの文章もごちゃごちゃになってしまった「長編&大巨編ファンタジー小説」と「ハウツー的エッセー&癒しの書」に二分されてしまう現在の読書界において、「地下鉄のザジ」という作品は、そのどちらにも分類されない独自性を強調させられる。
 もちろん、当時も独自であったには違いないのだが、それは小難しい説法と軟弱ヒーロー&ヒロインの物語を「打破」する意味あいがあったのだろうが、現在においては、「原点」としての正しさを主張し始めるものになる。
 近いところでいれば、「ケロッグ博士」だろうか。林海象「ジパング」のような荒唐無稽さでも良い。ただ、荒唐無稽を演じる時でも精一杯を尽くす。がんがんに定型化した物語の中からは、小説家・映画監督そのものが出て来る。かの人の魅力が「魅惑的」であればこそ、作品に魅了される者が多くなるのは当然だと思う。グリーナウェイや小津安、黒沢明も同じ。

 ジョイスがダブリンという町に固執したことと同様かもしれない。ジョイスの場合は彼独自の「遊び」の主張に乗るのが楽しい。

 フランク・ザッパの「グランド・ワズー」のような感じ。

 各自の独自さが本当に独創的であるならば、大衆的な価値基準は全く関係ない。誰がなんといおうとおもしろいものはおもしろい!説明するのが億劫になり、弁護するのも面倒臭くなり、「解からないならば解からないでいい。だけれども、私はこれがおもしろいと思う。私のおもしろいの基準はこれそのものなんだ!」というような、作品と直結した時の納得と不可思議さを内臓する。

 多分、共通しているのは、何かを知った上ではないと楽しくない楽しさが含まれているものだと思う。創造する時に必要なバックグラウンドは豊富であれば豊富であるほど良い。それが「インテリゲンチャ」というものだと思う。何かを見て、覚えていて、それらを組み合わせて自分の独創性を追求していく。定型表現を使わない、安易な言葉を使わないように努める。
 その辺の「こだわり」の部分が、説明はし難いのだけれども「この辺がちょっとへこんでいて面白い」と赤瀬川原平が云うような「ちょっとのひねりの面白さ」になるのだと思う。

 多分、レイモンド・クノーは、小説を真っ向から取り組んだ人なのだと思う。

update: 1997/09/05
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