書評日記 第354冊
不思議図書館 寺山修司
河出文庫

 渋谷のアップリンクという場所で寺山修司「青年のための映画入門」他を上映していた。川村喜八郎の人形に対する愛着と同じものを寺山修司の映画に感じる。
 寺山修司は劇作家としての地位が有名なのであるが、既に死後17年経ってしまったことを考えれば、私が彼の演劇に接するのは難しかったということだろうか。ただ、映画や本は残る。澁澤龍彦のように多読家であり多作家であり、本に対する本当の面白さというものを知っている人だと思う。彼等にとっても、私にとっても、世界のすべては本の中から始まり、本の中に集約されるところの存在としての「本」がある、ということだろうか。
 決して、知識のひけらかしや、単なる勉強のために本を読むわけではない。また、他の遊びに耽溺しないわけではない。ただ、特殊な遊戯としての読書というものがあり、何処にいってもただ寡黙な友人であるところの「本」という存在が目の前の世界を鮮やかにしてくれるものである、という唯物性を私は書物に感じるのである。
 現実は現実でドラマティックである。寺山修司自身、「書を捨てよ。街に出よう」と云っているし、単に研究者として家の中に閉じこもり現実性の介在しないところで溺れてしまう閉鎖性に甘んじることを避けて、現実の中の非現実性の演出である「演劇」に終生身を投じ続け、実験映画を作り続けたのは、何よりも雄弁であり、説得力を持つと思う。
 
 どちらかといえば「不思議図書館」は、散漫な作りになっている。難を言えば澁澤龍彦のような奥深さがないことなのだが、澁澤龍彦以外にそのような人物を考えるのが難しいところから彼が特別である、とするならば、寺山修司の博学っぽさが十分前面に押し出されたような作品である。ただ、碩学としては幅が狭いのと連想の浅さが気になるのだが、寺山修司の他の本を読むと解かるのだが、彼の場合は何よりも行動することが主体になっている面があり、そちらの方に心惹かれるもの、有言実行型の信頼感というものを共感するに至る。
 澁澤龍彦の「マルジナリア」のような感じなのだが、今ひとつの突っ込みが浅いと感じるのは、私の知識が寺山修司を超えてしまったのだろうか。ただ、寺山修司自身は非常に楽しんでこの本を書いていると思う。誰かに語るように、自分の楽しさを共有すること自体を、共有するという倍増する楽しさ、楽しませるところの楽しさ、というところに、彼の素晴らしさを感じる。
 安部公房や大江健三郎のように沈黙の中にある重さ、そして、その中にある雄弁さではなくて、柳瀬尚紀の言葉遊びや、山藤章二の似顔絵のような、一般的な面白さの中にブラックユーモア的なちくちくとした擽りを感じる敏感さを持っている人だけが持つことのできる楽しみ、というものだろうか。
 
 そう、澁澤龍彦等よりも年が若い(?)からかもしれないが、非常に若々しい感性を感じる。そのために老成しない知識の中にある青臭さを思う。私の文章も人にはそう見えるのかもしれない

update: 1997/10/30
copyleft by marenijr