書評日記 第355冊
冥土の家族 富岡多恵子
講談社文芸文庫

 日本の作家は家族を中心にしてか描けない、という批判(?)を聴いたのは柳美里著「フルハウス」を読む以前だったと思う。その科白を聴いて以来、私の中で「家族」というものは特別な要素を持つ客観的対象物になってしまっている。
 家族というものは実のところは決定的な崩壊を演出することなしに崩壊することを初めから宿命付けられていると云える。息子なり娘なりが彼ないし彼女の家族を持ち始めた時、古い家族は自然と崩壊する。無論、面々と続く歴代という形での「家系」が残る場合もあるのだが、現在のように核家族化が進み、和洋折衷の西洋式個人主義が巷の若者達を席巻してしまうと、両親を養うにせよ、息子ないし娘に養われるにせよ、マスメディアの中の「世代差」に慄きつつ、分離したそれぞれの家族像しか持てなくなってしまっている。
 もちろん、これらの「家族観」というものが非常に個人的経験を免れないものであるものの、一見して普通の両親と普通の息子の間に在ったのは、双方の思惑通りにいかない苛立たしさ(少なくとも息子の側から見れば)を抱えつつ、「独立」という形で「男」という形で放り出し、それだからこそ許されてしまう世間体というものに無情な寛容に支えられつつ、私は今の私を得るに至る。だから
、巷の家族がどうであろうとも、私の「家族」に対するわだかまりは残余しており、未だ解決を見ず、また、決して解決されないであろうままに、以前と同じ過ちを繰り返そうと両親はしているように見える。両親にとっては、先行きが短いのでそれでいいかもしれない。しかし、私にすれば、それらが枷であったことを知った以上、また、私が私を維持するためにはそれらの枷を「枷」といして自覚すべきであり、二度と同じ過ちを繰り返したくないと思う限り、元の状態へ平然を装って立ち返ることは心情的にも将来的にも認め難いものがある。むろん、それこそが、私が「大人の分別」を持たぬ証拠であるには違いないのだが、本当の意味でこれ以上どうしようもないものと完全に諦めることができるのならば、両親に何も期待することはなく、元の家族の風景を構築する要素となる(少なくとも独立した息子として年に数回の義理程度には)であろう。だから、ある意味では、未だ諦めきれず、私自身が不安定なままに泥沼に足を突っ込むことを避けたい、という自己保全が最優先しているのと、両親に対して期待を見失わないことが世間に対する期待を見失わないことと同様のところにあるものを抱えたいがためなのとであろう。

 吉本ばななが、父親・吉本隆明と対談してみせるように、富岡多恵子が演じる(!)ふく子とナホ子は、父親を慕う。そこには、父と娘という構図がある。逆に母と息子という構図が私の家庭にはあった。
 ただ、男からすれば、将来的に世間の中に埋没することを当然とさせられている以上、母と息子という関係は、自然と母が女へとすりかわることになっている。これは、「結婚」という二文字が、男にとって「家庭」を持つという形での社会的信用という要因を強く持つからであろう。逆に女からすれば、「結婚」は世間から身を退く第一歩のようなもので、「家庭」に至れば世間とは没交渉の世界に入り込んでしまう非社会的要因を多く持っている。むろん、この線図は崩れつつあると云われる。男女雇用法なり結婚しない女性なりが、「結婚」というものを社会の中の当然の制度として必須なものとしなくなってきている。これが、本人にとってどういう悪要因を孕んでしまうのか私には解かり兼ねる。ただ、上野千鶴子に云わせれば、「結婚しないことは、一大決心を要する」ほど重大事件であるには違いない。
 仕事をしていれば時間が過ぎる。いろいろ暇な時間があれば、先行きのことをあれこれと考えて自分にとって良い方法をじっくりと考えるようになるのだが、現代社会は立ち止まることを許さぬ騒がしさに満ちている。恋をしないのも即決ならば、恋をするのも即決なのかもしれない。それが巷で云われているように安易なものであり、昔のような文学的な恋愛というものは幻想にすぎなかった、のかどうか私には解かり兼ねる。つまりは、セックスに関することがおおぴらになり、離婚・不倫もおおぴらになってしまった時、仄かな「恋」は消し飛んでしまったのではないだろうか。双方が性急に何かを求め、間違いと気付いた時に、ポンと離れてしまうような容易さは、本来の容易ならざるものを見つけるのが下手になっているのではないだろうか。

 「冥土の家族」では、私の求める「恋」のような仄かなものはない。もっと現実的なものなのだが、決してぎすぎすしている訳ではない。口は悪いが心があり血が通う人間味というものがある。これはストーリーの中にあるきついジョークの中に潜む富岡多恵子自身の洞察力と人間への優しさというものではないだろうか。他者への優しさ(乃至厳しさ)をどのように表わすのかは人それぞれではあるのかもしれないが、私は富岡多恵子のような表現を以って「大人の分別」というものとしたい。どちらかといえば、一般社会に蔓延ってしまう大人の分別は、折り合わない、気にしない、関係しない、というような排他性のものの分別のような気がする。そこにあるのは「袖触れ合うも多少の縁」というような相手を想う気遣いというものはない。
 母と娘の会話と、娘の行動は、突飛ではあるものの決して排他性ではない。むろん、関わり合いあいたくないのはやまやまであるし、身勝手な父親や身勝手な人達(母も娘も含む)の中でどうやったら家族の中にある人間関係というものを壊さずにいられるものか、を自覚し続けるところに共感する。

 多分、富岡多恵子は女性の作家として珍しいタイプだと思う。女を表に出すのではなく、男を意識するのでもなく、非常に人間としてバランスのとれた作家ではないだろうか。本当の意味で、個性的な作家だと思う。

update: 1997/11/09
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