書評日記 第356冊
狂言鑑賞記

 狂言の実演(?)を見るのは始めてになる。小津安の映画を見て以来、能楽への興味は尽きないのだが、教育TVでいくつかの能楽劇を見る程度であった。
 観昭会館の中に入った時、小津安の映画そっくりであることにまずは驚いた。当たり前といえば当たり前なのだが、江戸時代もその後もこうやって演劇を民衆が楽しんでいたと思えば、どこか気楽になるような気がした。能楽と聞けば、どこか高価・高尚な感じがして、敷居が高いような響きがある。むろん、それが今回のような発表会(だから料金が0円なのか?)のようなものであっても、敷居が高いには違いない。
 
 3ヶ月ほどまえに泉鏡花「歌行燈」を原作とした映画があった。この中で能楽者の跡継ぎが女に舞を教える場面がある。果たして、女の身でどのような舞を踊るのか、いや、どのような声を出すのか、私は一瞬興味を持ち、どこか不遜な軽蔑を持った。だが、それは良い意味で裏切られた。あの下腹から出てくる能楽特有の声は、男であろうと女であろうと、同様に出せることを知った。それは感動だったのかもしれない。決して男性のものではない能楽の姿がそこにあった。
 
 はたして、その再現が目の前に広がるのか多少不安はあった。また、彼女達(見たことはないが……)がどのような姿勢で能楽に対しているのか、心配(?)であった。
 最初の小舞のいくつかを聞いた時、その心配が的中したような気がした。いかにも女女した声を聞いた時、あの「歌行燈」の女の声は特別ではなかったか、と多少がっかりした。

 だが、「蝸牛」・「舟ふな」・「清水」・「盆山」と狂言の本題(?)に入ってくると、声は一遍する。想像通り、いや、想像以上に気合が入っているような気がする。そして、男にはない柔らかさを持っている故に、狂言自体から「たのしい」雰囲気が漂ってくるのが解かる。
 当然、狂言というものは民衆に密着していて、ある意味では「落語」と同じように庶民の中で培われてきた芸能であるには違いないのだが、古典という垣根があって、どうしても芸術嗜好の多い伝統の重みと厳しさというものを嗅がざるを得ない面を持っている。むろん、それが悪いというのではないが、その垣根が「落語」とは違って受け入れ難い「狂言」というものを作り続けているには違いない。
 目の前の女性の演ずる「狂言」にはその古臭さがない。また、伝統芸能を存続しなければならないという気負いがない。いや、多少の気負いはあるかもしれない。しかし、何よりも彼女達は自分が「狂言」自体をたのしんでいるではないだろうか、という「たのしさ」を表に出して演じている。
 台詞回しは、多少の古さを含めつつ現代語に直してあると思う。それが更に「狂言」を身近なものにさせているのかどうかは解からない。ただ、かつての狂言が民衆の中の娯楽であったと同様に、現在の狂言も人々の娯楽であるという感じが舞台から伝わる。それは、うだうだとウィットだの学術的だの学問だのと能書きを立て無くては「たのしさ」を語れないような分析・対立としての男性の立場ではなくて、抱擁という形での女性からの「狂言」へのアプローチと表現方法なのかもしれない。
 
 この辺、多少、女を甘く見ていたような気がする。見直した……というよりも、想像通りであった。いや、想像以上であった。ということだろうか。
 
 さて、最後に彼女達の師である野村萬斎の「八島」の舞があった。
 これが迫力の一言であった。さすがは師匠、というか、舞台を切り裂く真剣さはホンモノだと思う。私は、ホンモノに出会った時、顔が上気するのが常だ。この時も上気していた。
 芸能としての舞の迫力は、女性は男性に及ぶべくもないと思う。これは、そもそも、舞への欲求が男性性にあるからだと思う。切り裂く緊張感を盛り上げ、空気をぴりりと引き締め、心身を一体として自分も観客も芸術となって昇華するような気分を味わうためには、「芸術」としての男性性が第一になってくる。
 だが、「狂言」の場合は、アプローチがちょっと違う。能楽として決まりきった伝統というストーリーの中に身を静めて、個人を無にする形で代々の演技を続ける方法も考えられ、その中に「歴史」を含めるからこそ、狂言が男性性を帯びることにもなる。実際、盆山で演じられる野村萬斎の場合、野村萬斎の個人としての個性ではなくて、幾代として続いたところにある歴史の中にあるひとつの個性が演出されるような気がする。これに対して、女性が演じる「狂言」には、歴史というものは見られない。むろん、そもそもが歴史の中に女性は介在することができなかった、伝統の中に女性というものは含まれなかったという意図があるものの、実際に演じられているものを見た時、強烈に感じるのは、その個々の女性としての個性であろうか。魅力であろうか。歴史の中の一部としての魅力ではなくて、個人としての魅力。決して誰と誰とを比較するのではないところにあるかの人らしさというものを感じる。また、それをたのしく思う。
 
 当然、この辺は、私見が混じっている。
 だが、昨今の伝統芸能への存続の危機を女性が引き継ぐことで救っている、という話を聞くと、実のところは「新しい伝統芸能」を創り出しているような気が私はする。その新しくなってしまった部分が果たして古い伝統芸能にマッチしているものかどうか私にはよくわからない。しかし、本来の(?)古い伝統芸能を捨て去る決心を男性側がしてしまっている以上、かつ、身動きのとれなくなった伝統芸能=文化になってしまっている以上、再び「源氏物語」や「枕草子」のような女性特有の打開策が必要な時期に来ているのかもしれない。

update: 1997/11/17
copyleft by marenijr