書評日記 第363冊
死刑囚最後の日 ユーゴー
岩波文庫

 インターネット上で「年間100冊の文庫本と岩波文庫を2冊読みましょう」運動というものがある。書評関係のホームページも多く意外と本を読んでいる人が多いことが解かる。いや、本当のところは、読書というものがオタク化しているのではないだろうか。自分のコンピュータのプロフィールを書いてみたり、TVゲームに耽溺していることを書いてみたり、人とは違った面を強調してみたり、他人とは違った自分を演出しているわりには「仲間内がいる」という絶対な安心感を求めて自分の内面をひけらかしているように私には見える。それが良いのか悪いのか私にはわからない。ただ、云えるのは、そんな雑多な人達がいるように見えて、実のところは本質を掴んでいる人(そのように私が見る人)は極端に少ないというところだろうか。
 つまりは、結局のところ、凡人はたくさんいるから凡人に過ぎなく、また、突飛である人は少ないからこそ突飛であり、そして、孤立するからこそ特殊技能であるという心情的な矛盾であろうか。
 
 古典に当たろうと思えば、岩波文庫を読む。逆に云えば古典と云われるような本を出している出版社が少ないだけに過ぎない。もちろん、文系の人達にとって本こそが研究対象であり、その研究対象の多くが岩波文庫の中にあり、だからこそ「年間に岩波文庫を2冊」というような特殊な目を以って眺めてしまうのだろう。
 また、非岩波文庫の100冊というものを眺めれば、巷の推理小説が溢れんばかり……では、TV番組に耽溺しているのと同じではないか、という「読書」という知的を求める貪欲さから遊離してしまっている本の読み方というものを感じざるを得ない。
 
 私がユーゴー著「死刑囚最後の日」を読んだ理由は、かつて「死刑執行人エルゴ」という短編を書いたからに過ぎず、「無知の涙」を読み「死刑囚 永山則夫」を読み「新聞王ジラルダン」で鹿島茂に出会い「レ・ミゼラブル百六景」を読み「子供用レ・ミゼラブル」を思い出し、そして、ユーゴー、バルザック、という関連を思い出したわけで、この「死刑囚最後の日」とバルザック著「知られざる傑作」を同時に買い込んでいる。
 最近の私の文庫買いは、河出文庫・ちくま文庫が中心になり岩波文庫が補佐、新潮文庫が押さえ、角川文庫・文春文庫が時々、中公文庫をたまに、という感じになっている。
 そういう自由な読書遍歴と関連性のある密接な本への探求心こそが「趣味=読書」と呼べるに値するのではないか、と私は思う。

 他人のことはさて置き、「死刑囚最後の日」はかつては衝撃であったろう、という感想しか私は持てなかった。それは文学史の中にあって歴史とは遊離しない作品ゆえへの当然なる賛美、というところだろうか。今という時代に「死刑囚−」のようなものが書かれたところで誰も見向きはしないと思う。そこまで人は鈍感になってしまっているかもしれないし、溢れんばかりの情報の中に「死刑囚−」のような「たったひとり」の感情の揺らぎの中に人は耽溺するほど暇ではなくなっていると思う。多分、氾濫する情報の弊害だと思う。飢餓民だとか民族紛争だとか隣町の殺人だとか乱射事件だとか、いろいろな情報が入ってくる分、目の前の現実と世の中にある現実が別個になってしまって、「よそごと」のような感想しか持つことが、いや、そのちょっとした感想さえ持つことなしに次ぎの現実が舞い込んでくる膨大な疑似現実の中に私達は漂っているだけなのだろうと思う。
 8月に永山則夫が死に、9月に神戸で殺人事件が起こる。その間にもいろいろな事件が起こり、人が人を痛めつける連続がTVや新聞に披露される。そのひとつひとつに感情を揺らせてしまえば、人の心なんてちっぽけなものだから、潰れてしまう。だが、そんな情報社会の中に居て、心が潰れてしまわないのは、結局のところ数々の情報に現実味を感じることなく、遠くの出来事として目の前の出来事とは別のものとして考えてしまい、手元にある仕事ないし生活こそが第一の「現実」として没頭してしまうからに違いない。
 
 「死刑囚最後の日」は今となってはあまりにも素直な表現を使って訴え過ぎる。それらの訴えは歴史の中で様々な人が繰り返して言葉に出してしまった。だから、陳腐化してしまっている。それが「古い」のか「新しい」のか、そもそもが真理に新旧の区別なぞあるものだろうか。だが、歴史は積み重ねられるからこそ歴史となり重みを持ち形骸化し陳腐化して、その中から再生するというサイクルを繰り返す。だから、ひょっとすると古典としてあらわれる「死刑囚最後の日」の中でユーゴーが描く焦燥感というものは、陳腐化してしまっているのかもしれない。
 
 ただ、一読した時に思ったのは、「レ・ミゼラブル」を描くユーゴーならではの視点、いや、虐げられた人々に目を向け続けることをしたユーゴーという人間、確かに彼は下級階層というカテゴリ的な見方でしか虐げられつつある人達を見れなかったかもしれない。だが、彼の描き出すことのできた作品を通じて、私は人が培う「視点」というものの決定的な違いを意識させられた。それは、ユーゴーという人間を批判するためではなく、私がユーゴーという作家を通してみる世間に対して、私自身の偏見・気が付かない部分・気が付きたくない部分に対して多角性の視野による補正を感じることができることだと思う。
 
 何も知らないよりは知っていた方が幾分マシに生きることができるであろう。加賀乙彦著「死刑囚の記録」を読んだのも偶然ではないのだろう。
 
 そう、これからの日本文学は「犯罪」に目を向けるべきだ、とどこかで書かれていたが、どうなのだろうか。ただ、「誠実な不倫」というような矛盾したことを云わないようにして貰いたいものだと思う。

update: 1997/11/27
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