書評日記 第367冊
胎児たちの密議 真名井拓美
審美社

 三島由紀夫の出生時の記憶を中心にして胎児の頃の記憶をネットワークとして話が広がる。
 実際のところ、胎児の頃の記憶があるのかどうか、または、胎児自体にそのような外部認知の能力があるのかどうか、疑問を持つ人は多いと思う。ただし、最近の科学においては「お腹の子に話し掛ける」というような胎教を推奨するところから、既に胎児という状態で思考能力があるとするのが一般的になりつつある。
 ピアジェの発展心理学を見ると、認知能力というものが先天的でないことがわかる。当然といえば当然のような気がするのだが、ではどの時点から子供が認知能力を獲得していくのかよく分かっていない。子供自身に聞ければいいのだが、残念ながら子供本人はオトナの言葉をうまく使うことができない。だから、そのような頃の記憶を持っていた人が子供の頃に感じた想い出を分析することになる。
 
 著者は胎児の頃の記憶を持つという。これが前世の記憶を持つとか、死後の世界を信じるとかいう非科学的(?)な問題と一緒くたになってしまうのかといえば、そうではない。少なくとも著者は著者自身の記憶を元にして数々の作家の作る原体験というものをネットワーク化していく。それが、何かを語る原点なのかもしれないし、また、ユング心理学の云うところの共通認識に至るのかもしれない。どちらにしろ、小説・小説家を見る視点を心理学的立場に据えていることは確かである。
 
 三島由紀夫を始めとして、安部公房・開高健・井伏鱒二等の穴蔵嗜好の作家&作品が分析の対象となる。いわば、フロイト心理学へと至ってしまうのかもしれない、オカルトと云ってもいいかもしれない、トンデモ文学といってもいいかもしれない、そういう風な既知ではない部分に光を当てることに主眼が置かれる。
 文芸批評の目ではなくて、あくまで読者の目から見た時の作品というものと作家という姿に重点を置き、人を好むという状態にまで昇華される。まあ、この辺が著者云うところの「作家のネットワーク」というものだと思う。
 
 共時性が強調されている。世界的にほぼ同時に創られた作品を並べ上げる。
 ただ、難点を云えばこれが文学という分野にかぎられてしまっているところだろうか。むろん、著者の興味が文学に限られているのは悪いことではないのだが、創作作品として絵画・彫刻等に目を向けるのも悪くはないと思う。
 特に、「戦後」という社会現象は日本にとって重要な意味を持つ。「戦前」とされてしまった(つまりは、戦前という頃は戦争が起こらなければ「戦前」にはなり得なかった。「戦前」という時代は、戦争を中心にして語られる意識付けを意味する)大正・昭和初期の社会の産物を広く眺めるのも悪くはないと思う。
 
 高野三三男が「日本のアールデコである」という事実を加えておくのも「科学的視野」を持つ意味で悪くはないと思う。この辺、理系の私ゆえだからかもしれないが。

update: 1997/12/04
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