書評日記 第368冊
PINK 岡崎京子
MAG COMICS

 岡崎京子の漫画ははじめて買った。実は岡崎京子は休筆中だそうである。杉浦日向子といい、そういう人ばかりにぶち当たる。内田春菊よりも荒っぽくはなく、近藤ゆうこよりも生々しいわけではない。強いて云えば山田詠美タイプというところかもしれない。この作品に限って云えば「あざやかな」という印象を残す。

 ワニを飼い、ホテトルで稼ぐOLという設定。
 異母姉妹がいて、小説家志望の少年(と思う)がいて、金目当ての継母がいて、という「うちわ」っぽいハナシなのだが、多分これは今の20代後半からの世代に通じるものなのかもしれない共通体験・認識によって随分支えられているような気がする。

 最近、水島新司「平成野球草子」を買って読んでいるのだが、水島新司のような世代から見る世間への視線と、岡崎京子の見る世間への視線は、相当違うことがわかる。最近の30代の男性達が「オヤジ」風を吹かせていてもどうにも本物のダンディとは違う若さ(青臭さ)を内在していまうのは、かつての世代には無かった「消費」への欲望が30代の男性達には備わってしまっているからだと思う。
 倹約だとか貧困だとか我慢するだとか、そういうものが当たり前ではなってしまい、「消費こそが美徳」という意気込みも無く、日々消費のために仕事をしているのか仕事のために消費をしているのか混沌となった安住の中に日本の現代は風土を求めているように思える。

 ホテトルが流行るのは、ホテトルを必要とする男性達がいるからだ、という非難もしかり、ホテトルをして金を稼ごうとする女性がいるからだ、という非難もしかり。だが、普通(?)の生活をしていれば、そんな波乱に付き合っている暇はないような気がする。すくなくともプライベートの見えないオフィスの中では誰が何をしているのかさっぱりわからない。
 そういう離反する隣人の社会である都会の中で、都会の人達は何くれとなく暮らそうとする。必死なのか遊びなのか余裕なのか惰性なのかわからないが、オフィスに通っていることは確からしい。

 少年が文学賞を取ってしまう場面でストーリーは終了する。少年が車に轢かれて物語は悲劇に終わるのかといえば、実はそうでもない。夢も現実もごっちゃになってふわふわした感情の中に生きるしかない都会の生活は、ふたたびふわふわと移り行くだけなのだろう。

 この描き方が、岡崎京子流の「あざやかさ」だと思う。
 このあたり、漫画だから描き得るのか、小説だから描くことができないのか、私にはよくわからない。ただ、それぞれの特徴を踏まえた上での住み分けが必要ではないかと最近は思う。すくなくとも、岡崎京子の漫画は「漫画」でしか成し得ない「あざやかさ」だと思う。

update: 1997/12/04
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