書評日記 第376冊
死の棘 鳥尾敏雄
新潮文庫

 『男流文学論』で上倉千加子が「気持ち悪い」と評していた小説。

 「所詮、私小説作家なのだ」という部分から抜け出して(というかそのような批判をものともせずに)私小説作家としてのリアリティを追求した根性は誉められるべきかもしれない。そういうところに数々の文学賞としての作品『死の棘』があると思う。
 だが、『死の棘』で描かれているトシオの行動が「気狂い」を誘発しているのだとしたら、それはあまり褒められた行動とは言えないだろう。実際、妻の情緒不安定の発端は敏雄のあやふやな行動にある。
 そういう意味では、障害児を持つ作家=大江健三郎の方が男女関係において正当な評価を得ていると思う。
 
 小説の中の「狂い」が賛美される。精神異常者としての女=妻に献身(?)的な対応をする夫の姿なのか、それとも「気狂い」そのものが描かれているのか、または、女にだらしない男を批判しようとして描こうとしているのか、そして、私小説として自分の生活を客観的に冷めた目で見るところから始めようとしているのか……それらは判然としない。
 多分、文学的な評価の上では「女が描けている」という言及ほどに男性批評家的な視点からの評価によって文学賞を得る&世間的な好評価を得るに至ったのかもしれない。それは、逆な視点(この場合は「気狂い」として描かれる妻と同性である女の視点)から見れば、精神異常を誘発してしまいそれの原因を直そうとせずに結果しか見ようとしないトシオの姿へは、嫌悪でしかないような気がする。嫌悪は嫌悪として描き切ったのであれば、巷の名誉的な評価であるところの「文学賞」というものに値するのかもしれないのだが……、どうもそういう評価が下されたような感じはしない。
 
 夫のあやふやな行動が、妻の精神をかき乱したのは確かなことだと思う。
 ただし、夫・鳥尾敏雄は死に、妻は夫の看病を感謝していると云う。
 となれば、現実へと立ち入るのは無粋ということかもしれない。
 
 幻想と老獪さで川端康成が描く「女神」や谷崎潤一郎の「鍵」のような視点の方が創作としての美があるような気がする。日常から離れ、だんだんと狂い入ってしまうところの美しさというものを見詰めようとするならば、そのような描き方になる。
 逆に云えば、美でも醜でもなく、現実のものとして「気狂い」を淡々と描写したとこに『死の棘』の価値があるのかもしれない。それが、派生的な価値でないとしても、「書く」ということ自体に価値があるならば、人間=作家としてはそれでかまわないのかもしれない。

 ただ、読者としてならば、反教師的な役割、いや、もっと外側に追いやっておきたい気味悪さというものだろうか。これは「気味悪さ」を知ることによる認識の葛藤を意図するものではなくて、あまりにも不甲斐ない人のひとつの記録というところだろうか。
 
 即ち、「不当な評価を得ている男性作家」なのかもしれない。「男性」であればこそ男性批評家によって受け入れられ、男性の作る社会での賞状を得るに至った、という経緯は、上野千鶴子にはあまり面白くないというのは当然のことだと思う。

update: 1997/12/12
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