書評日記 第377冊
日の名残り カズオ・イシグロ
中公文庫

 カズオ・イシグロはイギリス生まれのイギリス育ちであるから、日本の作家とするよりもイギリスの日系の作家という呼び方が正しい。ただし、「日系」という形容詞をつけてしまうように、彼の中にある「日本」への憧憬は意外と深いのかもしれない。
 解説によればデビュー第二作目は舞台を日本としているそうだ。このあたりの感情は、夏目漱石『明暗』の続編として『続明暗』を書いた水苗○○(名を失念)と同じスタンスだと思う。
 
 『日の名残り』は「執事」に注目する。
 訳者によれば、『日本に執事が理解されるかどうかわからないが』という懸念はあるものの、武士の概念が武士道理解できない西洋人にわからないように、その風土に密着した象徴概念というものは往々にして理解し難いものになるので構わないと思う。ただし、それが「中国女」という言葉からイメージを湧き出させてしまうように、世界一般に通用するものとはならないことを注意しなければならない。だが、昨今の文学というものがさほど一般概念を追求しなくなり、視線が外側から内側へと方向転換されていることを考えれば、どのように描こうとも構わないのかもしれない。
 イギリスと日本は島国というところで共通点があり、騎士道と武士道の部分で共通点を持つ。言わば、個を無にすることを厭わない風土というものがある。今でこそアメリカ的な個人主義と資本主義が蔓延し、その精神が日本人の大部分を占める(と思われる)ようになったが、かつての教育体制を考え合わせれば儒教・仏教の中に含まれる「無我」の概念はかつての人達の中には未だ有効であるような気がする。ひょっとすると、そういう古い人達の間では、「執事」の持つ矛盾した殉教的な生き方に共感を覚える人は少ないとはいえないと思う。実際、『日の名残り』では、戦前の「執事」の姿を描いている。また、イギリス紳士に仕えることに満身を込めた執事の姿勢に対して、戦後にアメリカ人に仕えることにさほどの熱意を持つことができないという呟きを彼は残す。
 これが、イギリス式の紳士的な矛盾からアメリカ自由主義的な矛盾への移行を批判してるのは明らかなのだろうが、どちらも矛盾を抱えたままであることには違いない。ただ、執事という立場を意識し続けるのならば、執事という役目に没頭してしまうのも人のひとつの生き方のように思える。
 
 実は、最後の最後にて「品格」への懸念を示してしまうのは、カズオ・イシグロの「執事」に対する誤解ではないか、という気持ちが私にはある。武士道を極めてしまえば、「殉死」こそが最高の賛美となる。それが現代の個人主義の中で厳しい生き方であろうとも、個人ならばこそ為し得る喜びというものがある。それが無我、であるのだが、その辺を論じようと作者はしていない。これは、「提案」をしているに過ぎず、また、作者自身の生き方を示しているに過ぎない。ただし、これは彼に対する賛辞である。この作品にあるような思考を持つに至るのはなかなか難しいことなのだ。
 それらを、多分、「風俗」と呼ぶのだと思う。現在という時間の中でしか生きることができないからこそ「風俗」を自覚しなければならない。善し悪しは別として。
 
 「全体的な感想とは?」と問われれば「好感が持てる」と答えると思う。「品格」という用語に固執する作者&執事の姿勢もそうなのだが、全体としてすっぽりまとまった、という感触が得られる。それが好感に繋がる。
 
 まったくの余談になるけれども、大野安之著「That'sイズミコ」で罵虎(ばとら)(字が違うと思う)という執事が出てくる。極楽院イズミコの御守役として出てくる。単なるドタバタ漫画、と言ってしまえばそれまでなのだが、実はこの執事の性格がまさしく「執事」の役目を担うに足る落ち着きを持っている。
 言わば、貴族的な知的さと横暴さと独善さを支える支柱として「執事」は存在する。逆にいえば、そのような知的な貴族がいない現代においては「執事」は存在できないと言ってよい。かつての遺物と言ってしまえばそれまでなのだが、カズオ・イシグロの描く「日の名残り」の中ではその遺物が生き生きとしていた時代というものを懐かしむ英国的夕刻の季節を思わせる。

update: 1997/12/11
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