書評日記 第392冊
淋しい狩人 宮部みゆき
新潮文庫

 古書店主・イワさんと孫・稔を中心とした本にまつわるオムニバス殺人ミステリー……ということになると思う。
 出久根達郎の描く古書店を中心にした小説が元ネタになっていると思う。すくなくとも、そういうジャンルが最近確立しつつある。
 
 本を読む人は本に対して一番の興味を持っているといえる。むろん、本の種類はたくさんあるのだが、小説の中に出てくる登場人物達が本に対して疎い感情しか持たないよりも、本に親しい人達の方が読者はリアリティを感じる。当然、本を読んでいる人が本に親しむ人であるわけで、だからこそ、その読者から見る世間というものは多少本・小説に偏って(それぞれのジャンルでの違いはあるだろうが)眺めているところがある。読者である彼ないし彼女が求めるストーリーを小説の中に構築しようとする。だから、本は「好み」というものがある、といえる。
 
 自分で小説を書こうと決心すると、普通に小説を読めなくなってくる。これはプログラマである私が何かのソフトを見る時に瞬間的に内部構造・動作を推測してしまうと同じことである。こういうのを職業病としてしまう言い方もあるけれども、私は「趣味」の延長としてそれらの考察を楽しむ。また、深く楽しめる能力が自分にあることを幸せに思う。また、哲学嗜好の私であることを私自身が認めるに至りつつある。
 文章を書こうとする時、私は正確な意図を文章の中に込めようとする。それが果てしなく無駄な作業に思えることもある。ひとりで語りひとりで納得してしまう自分以外では全く理解し得ぬ経験の中から生まれてくるしかない言葉を使ってしまうこともある。ややこしい言葉を連ねてしまうこともある。だが、微妙な点を微妙なままに残そうとして悪戦苦闘する自分の姿を私は見て、そして、その苦闘の中から生まれる文章を後に見返した時に、それなりの結果がでていることが私は嬉しく思う。また、微妙な部分を突きとめることでしか相手に伝わらないものがあると思う。だから、多少、饒舌であろうとも微妙な部分を語ろうと努める。
 ただし、自分の中にこもってしまっている科白がある。ふと、おもしろいと思った内輪受けの科白は内輪受けとは本人には気付かない時がある。むろん、内輪受け(たとえそれが文章を書いた本人だけだとしても内輪には違いない)の科白であっても、何かの比喩として共有する部分があれば、読者は独自に何かを考えてくれるかもしれないからだ。
 村上春樹の使う比喩は彼独自の内輪、もうちょっと広く言えば、彼の小説を好む読者達の間でしか通用しないものが多い。だが、私個人から言えば、読み進めることに邪魔にならない比喩である。これに対して宮部みゆきの比喩は上っ面の比喩でしかないような気がする。それが頻発してしまうところに私は『淋しい狩人』にある「本」という強い共通点を感じつつも鼻白んでしまう。
 男女の違いだとか、私がミステリーに慣れていない、私がミステリーが嫌い、私は宮部みゆきの本を読んだことがない、という言い訳も可能ではあるのだが、ちょっと彼女の描く比喩の仕方は作家としてはちょっと稚拙なような気がする。

 小説とは何かを何かに喩えることで、中空を埋めていく作業のような気がするのだが……。
 作家はたくさんいるのだし、それでいいということも言える。
 こういう風な考え方自体が、私を悩ませる。

update: 1998/1/18
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