書評日記 第393冊
嵐が丘 E・ブロンテ
新潮文庫

 『風と共に去りぬ』のような気分を満悦したかったのだが、そうはならなかった。かなり早いペースで読んだからかもしれないし、私が『嵐が丘』を必要とする時期ではなかったのかもしれない。
 
 いわゆる名作を読むことは大切なことだと思う。いみじくも小説家を目指すならば名作の中にある定型を掴んでおくことは必要なことではないだろうか。当然、名作といわれているものを読まなくても小説は書けるし、様々な人生の場面に対処することができる。いろいろな想像を膨らませることもできる。すべてを知ることはできないのだから、すべてを知らずにわからないままに行動することは必須となる。しかし、だからといって、何も知らずに盲目的に行動するのを私は良しとはしない。また、私はそういう風には行動しない。何かをする時の準備は必須だと思う。すべてを網羅することは当然できないにしても、何かを用意することは、将来起こる場面に対して役に立つかもしれない。いや、もっと積極的に言えば、それらの用意が役に立つような場面を創り出すことになると思う。役に立つような場面しか出会わないことになると思う。
 消極的に人生の往路にある壁にただぶち当たるのは、あまり賢い方法ではない。壁があるならば乗り越えることも必要であるし、また、壁のない道を選ぶのもひとつの方法だと思う。自分で壁を作ってあたかも本物の壁を越えたような自負をするのもよいと思う。また、小さい壁を練習台にして幾度も超えてみるのも悪くはない。どれにしろモラトリアムから本当の壁を越える時、また、甘く考えてしまえば常に甘いものでしかない、達成というものなぞひとつもない現代社会の中で、自分なりの達成感を得るために、そして、かつての自分を裏切らない、無駄にしない、夢を夢のままに終わらせない、どうあっても同じような人生ならば、ひとつの壁を乗り越えておくのも悪くはない、楽しい自分の時間を創ろうとしても悪くはない、そういう能動的な想いを持ち始めた時、先人達の轍を見ておくのも悪いことではないと私は思う。
 
 一体、最終的に何が必要であって、何が必要でないか、なぞということはわからない。一日一日はそれほど大切でないかもしれない。ぼんやりとした日常を過ごして、それらを重ねる形で、終わってしまう人生も決して悪くはないと思う。世間的に何かを残すかどうかなぞ、私を知らない人は(それが知っている人であっても)全く関係ない。逆に、私が何をしようともあまり関係がない。
 そういう疎遠ばかりの世間が私の目の前にはある。だけれども、決して疎遠だけではない世の中が私の周りにはある。私以外の人がどのように考えているのか、よくわからないことが多い。良く解かるようになるなんて傲慢だと思うのだけれど、『嵐が丘』という作品があって、それが名作として認められている世の中が現実にある、ということが、私を勇気付けてくれる。
 それが些細なことなのか、重要なことなのか、今の私にはわからなくなりつつある。ただ、過去の私には重要なことだったということが、今の私を勇気づけてくれる。

update: 1998/1/18
copyleft by marenijr