書評日記 第395冊
きらきらひかる 江國香織
新潮文庫

 私は恋愛小説に未だ疎いと思う。山田詠美の『ベットタイムアイズ』や『ジェシーの背骨』を読んで以来、そして私の個人的な事情以来、恋愛を真っ向から扱ったものを避けている。
 だから、現在の私は、松浦理英子や長野まゆみの小説に逃げていたりする。
 
 江國香織は、元(?)童話作家、がうなずける言葉の選び方をする人だと思う。今の私は正確な言葉づかいをする人を好んでいる。これは文法的に正しい、というのではなくて、感情的に正しい、論理的に正しい、人として暮らしている中で過去のことがあって今があって将来がある、という時間の中で紡ぎ出されるものとしての言葉として正しい、という意味である。逆に云えば、小説でも日常でもちょっとした嘘に躓いてしまう。日常での嘘ならば、それは社会生活の中でいろいろな人がいる中での込み入った現象を避ける、または、分別を保つゆえの論理破綻としての嘘なのだけれども、小説の中にある嘘はひとりの人間から出てくる辻褄の中で、小説家の無自覚、または、読者としての私と作者の共通として大切にしている部分の食い違い(または、作者に大切にしている部分がない……と私に見える時)があらわれる時に、私はその小説に対して難しく鼻白む想いを沸き上がらせてしまう。まあ、宮部みゆきの『淋しい狩人』がそうだった、ということなのだけれども。
 そういうところでは、『きらきらひかる』はすんなりと共感できるところが多い。ある科白や事件があって、登場人物が実に納得のいく形で反応をする。それは定型なのかもしれないけれども、よく練られた上での定型であり、または、作者がストーリーの流れの中で、十分に登場人物達に感情移入をして考え続けていないと出てこない定型であり、ひいては、江國香織という個人が小説を通して非常に身近に感じられる共有感情というものを得られる定型だと思う。だから、それは巷で云うところの定型ではなくて、彼女が持っている人心地というものを通じることができる、作者と読者で創る空間的なものとしての定型だろうか。

 そう、あとがきを読んで納得感を深めるのだけれど、誰もが天涯孤独であるということ、それでも(だからこそ?)人を好きになることがあること、という一文が私には心地よい。
 
 ストーリーとしては、ホモの男と情緒不安定の女であって、描き方としては「定型」に嵌まっている部分(ホモの男に男の恋人がいる、のを当然として描いているとか、それぞれの両親がしゃしゃり出てくるやり方とか)があるのだけれども、山田詠美よりも粋がっていない分、物語としての非現実性が強く漂っているので、あまり気になるものではない。むしろ、物語としてはそういう定型の部分は定型に押し込めてしまった方が読者としては心地良いところがある。むろん、小説全般に流れる匂いが心地よいことが必須であるのだが。

update: 1998/1/18
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