書評日記 第396冊
ベストセラーの構造 中島梓
ちくま文庫

 ベストセラー作家・栗本薫が批評家する中島梓名義の本。
 『ベストセラーは作られる』という科白は聞き飽きたかもしれない。だが、それが誰によってであろうとも、作家自身の思惑とは全く関係のないところでベストセラーは作られるのは確かである。少なくとも、本が商品である限りひとりの読者が一冊の本を買い、それがたくさん売れたことによってミリオンセラー(乃至はベストセラー)になるということは間違いない。ベストセラーを求める読者がいるからこそベストセラーは存在する、ということ。
 
 作家なりTVタレントなりはいきおい名が売れることが第一義になってしまう。同様な意味では新聞紙上に名が轟く犯罪者も第一義であることには違いない。個人レベルから見れば名が売れることによるミームの氾濫が個としての目的なのだから、それらの方法が社会的に正統であろうと異端であろうと同じことには違いない。
 だが、金銭なり生活保証なり裕福さなりを追求する現代社会の中で、ベストセラー作家になることは庶民の夢であるには違いない。そして、夢だからこそ隣人にはなって欲しくないのかもしれない。
 
 つまりは、ベストセラーが生まれたり疎まれたりするのは、作家と非作家=読者という対比が明らかになり過ぎているところだと思う。誰もが何かを持っているはずなのだが、「才能」という言葉はそれを拒んでいる。つまりは、才能を持つ者がベストセラー作家になり得、才能のないものは売れない作家か、小説を書くことを夢見るだけでしかない未だ作家にならざる人か、それとも、小説を読むだけでしかない読者か、ということになる。
 むろん、誰もが作家に憧れるわけではなく、完全なる読者の立場として小説に接することができる。だが、ベストセラー作家の顔がTVで映し出されるのを見ると一般大衆は名を馳せる者に対しての嫉妬の目を向け始める。そこにあるのは、小説を書く作家ではなく、名が売れている豪邸を持つ「作家」であるひとに過ぎない。
 
 まず、小説を書こうとするときに苦悩するのは(むろん、小説に限らずなのだが)、自分の書いた小説のおもしろさが読者に受け入れられるかどうか、だろうと思う。最近では「書く」こと自体が自分に対しての問い掛けを明白にすることによって自己治療の意味を持つことが解かり始めているので、自分以外の読者のいない小説を書くことに対して抵抗がすくなくなったかもしないが、それでも、書きつけたものに対する自己嫌悪は拭い去ることはできない。それは誰かに認められたいという欲求=他者からのアイデンティティを必要とするからである。
 果たして、誰かに認められることは、価値の共有を意味する。自分だけではない価値観・幸福感というものに対して、誰かが共感してくれることは、自分だけではないという一般性を帯び始める。それが内輪でしかない少人数の一般性でしかないといしてもかまわない。歴史性や社会性の中にある学問的価値とは違ったところにある共有感情を人は欲する。
 それらの強い連帯感が小説を書くことに求められるし、必要不可欠なものだといえる。また、ベストセラーを作るのは読者側にある緩やかな連帯感が、読者としての横の繋がり、アイデンティティを共感する小説の中に求め、それを通して自分の価値観が社会通念の中から外れていないことを確認しようとする安心感を求める。
 
 そういう社会現象としての(「社会現象」という概念も新しいのだが)ベストセラーを庶民は認めつつ、さらなるベストセラーを求める。しかし、小説に対してすれてしまいつつある庶民はベストではないベストセラーを黙認し得る度量を持ち始めている。つまりは、緩やかな連帯感が更に緩やかになり、自分を含めた内輪の社会がより強い連帯感を求めている閉鎖性が強調されているに過ぎない。
 
 そんな乖離し始めている作者と読者との間の中で「いま」求められているものは何だろうと思う。また、読者としての私は何を「いま」求めているのかと思う。
 私はそれこそが「いま」必要であるところのものなのは最近解かり始めている。そして捨て去れない過去と創り出すべき未来の間にある「いま」に対して、それぞれの人達がそれぞれの社会の中で為すべきことを考えることによってしか、私の「いま」は幸せになれないのかもしれない。

 

update: 1998/1/8
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