書評日記 第398冊
ラブ&ポップ 村上龍
幻冬社文庫

 「援助交際」がキーワードになる。
 SPA!に載っていた書評があまりにも持ち上げ過ぎだったのが気に入らなかった。が、読んでみれば、持ち上げるに足る内容はあるような気がする。それは、書評にあった『女子高生の言葉を村上龍が真似て、悪文と紙一重のところの云々』というような持ち上げ方ではなくて、村上龍にしては珍しくものを考えてストーリーを綴っていった、というところが見え隠れする「好感度」のような気がする。
 
 私は現代風俗としてのモノをちりばめる彼の文章を評価しない。だが、見下すわけでもない。これは、人が生きている場所に於いて、生きてきた道筋でしかものを考えられないのだから、人・村上龍はそういうやり方で小説家という彼の職業を表現していっている、という完全な他者性が根拠にあるに過ぎない。だから、卑近な形で古典(昭和初期のものや、戦後文学として評価されている作家・小説も含めて)に親しみ過ぎることによる閉塞性を脱するために、村上龍の作品を読むのも自分には悪いことではない、と私は思っている。
 実のところは、彼我にある「男」という性への執着が似ている。だから、一方的に私は彼を(当然、彼は私を知らないので)単純な形で嫌悪しているのかもしれない。また、ベストセラー作家として「社会現象」になり続ける彼の作品、「女の読書」シリーズに含まれてしまう不可思議性の解決(解答ではなくて)を求めるものとして、「村上龍」を好む社会と私の関係を模索していると云える。
 
 彼は、『ラブ&ポップ』のあとがきで語るように『娯楽作品以外の文学が危うくなってきていることを知る』という言葉通りに、不安になっているかどうかは怪しい。彼自身、古く云うところの「文学」を模索しているかどうかは怪しい。むろん、彼は彼なりのやり方で彼の小説を産み出すことをしているし、それは彼なりではあっても努力の結果であるには違いない。それが、ベストセラー作家・村上龍というネームヴァリューを利用した形(または、利用された形)での、小説の大量生産に繋がっているとしても、彼は初期の頃のように筆をストップさせる形をとらないだけ小説家としてマシかもしれない。
 ただ、彼が彼自身の持つカリスマへの憧れと社会が欲するカリスマ性・偶像崇拝を自覚しているかどうかが私には怪しく思える。また、それは自覚していないと断言できるような気がする。
 そうなると、常に場当たり的な発想でしかない、彼の追求の仕方は決して何を「追求」しているわけでもなくなる。ゆえに、彼の追求(それが快楽であれ風俗であれ現代であれ)は今の日本社会にある「援助交際」的な物事の追求仕方を率先して行っているような嫌悪感を私は感じざるを得ない。
 そこには、ひととしての村上龍は見えてこない。単なるベストセラー作家に仕立て上げられ続ける村上龍がいるに過ぎない。
 それを自覚しているのか、と私は危惧する。また、村上龍をベストセラー作家にしてしまう人達(本を買うので私も含めて)に杞憂を持つ。

 主人公が「アンネの日記」を読んで感動した、と村上龍は書く。実際の女子高生ならば「アンネの日記」を読んで素直に感動するだろう。それほど高校生は物事を知り得るないし、未だ知り得る立場にはいない。ただ、『感動した』という一文を書く村上龍が感動するかどうかは別で、また、彼が「感動した」と何処かで言ったにせよ、彼の感動した心は私には伝わらない。これが彼に対する意地悪であるにせよ私の本音はここにあると云える。
 
 読後感は良い。ただし、援助交際はこういうものではない、と私は思う。それは、もっとどろどろしている、というのではなくて、もっとさばけているのではないか、と思う。つまりは、援助交際をする人と援助交際をしない人は互いに他人であるということで、将来的にも繋がりを持ちはしないだろう、という乾いた現実感が今の私にはあるからだ。ほんの数パーセントをあたかもすべての人達がおおなっているように表現してしまうマスメディア(小説という仮想現実も含めて)に対して今の私はひたすら遠ざかることを欲し、自分の周りにある狭い社会に私の現実を融合させようとしている。戦略だの戦術だの駆け引きだのといった現実の資本社会は醜い。それがこの日本の社会で生きていき、裕福さを味わう身の上であろうとも、やっぱり醜い。けれども、そんな醜さしか世の中にはないのか、といえばそうでもなく、それすら数パーセントの時間にしか現実に行われることはない。
 どう生きてもよいのならば、どうやって生きてみようかと模索するのも悪くはない。また、投げやりになるのも、悪くはない。ただ、云えるのは、未来はそれほど希望に満ちているわけでもなく、当然ならが、絶望に満ちているわけでもない。少なくとも、私が高校生の頃に思い描いていた10年後とは全く違う自分が今の私にはある。
 そういう変わらないものを持ち続けるのが良いことなのか悪いことなのか私には断言しかねる。そういう意味で「援助交際」という現代のスタイルに引きずられてしまう中年男性(?)達と物欲丸出しの女子高生達は私の現実の外にある。

 解説者が云う言葉なのだが『村上龍は決して客観視をしたオジサンではない』とある。しかし、私ですら思うほどに彼の描く「援助交際」の現実は違うと思わせるものが頻発する。そういうところに彼の男性性を強く感じ、それをイコール踏み込んでこないつまらなさを私は感じる。
 
 文学が衰退していると彼は本当の意味で嘆いているのか。それとも自己の生活の安泰を踏まえた形で嘆いているのか。また、嘆くポーズをしているだけなのか。嘆かざるを得ない社会が彼をそのように作っているのか。
 どれにしろ、彼を求める読者達は今後も彼を求めると思う。そして、彼等は「村上龍はもう卒業した」と云って本を読まなくなると思う。私は彼の読者と彼を認める世間をそのように見る。

update: 1998/1/20
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