書評日記 第399冊
グインサーガ外伝12 栗本薫
早川文庫

 グインサーガシリーズを読むのは久し振り。敢えて避けて来たということもあろうが、グインサーガの世界に浸ることができない心境であったのは確かなことだと思う。
 となれば、今は、読めるぐらいの余裕を持つことができたということだろう。
 
 グインサーガのような小説の場合、単に楽しめればいいのかもしれない。だから、なにかという評価を下すのは余り好ましい行為ではないような気がする。ただ、中学生の頃から読み始めたグインサーガというシリーズに対しての私の思い入れは、他の人がグインサーガにのめり込むような思い入れと同様のものがあると思う。これは、いわゆる青春期に読んだ本として、当時の評判なりいままでの評判なり、社会的な評価なり、を廃したところにある、自分で選び、そして、今に至っても楽しむことができる本として、私の一貫した嗜好を証言するものと云える。
 言わば、私が私自身の信用を得る根拠として、栗本薫という作家がいて、グインサーガという作品がある、ということである。
 
 その自分を形作ってきたシリーズに対して、多少なりとも物事を客観的に見られるようになった年齢に達した私ではあるけれども、縦割りのような表現を使うはできない。これは、私が司馬遼太郎の「竜馬がゆく」という作品が、熱心にひとに勧めるほどに(実際に書評日記には司馬遼太郎という名はでてこない)私の今を支えてはいないけれども、過去において自分の支えてくれたもの、私自身の根底にあるものとして、将来においても拠り所になるであろう、世間的な評価・評判とは全く別のところにある個人的な愛着ともいえる評価を持ち続けていることと同じだと思う。
 
 私の読書歴は意外と浅く、中学・高校とほとんど本を読まなかった時期がある。浪人中に国語の成績を上げるべく、本を読み始め、その続きとして大学生の頃にストーリー漫画を描くべく本を読み続けたことを考えてみれば、普通の文系学生とは違った、または、巷の本好きの人たちとは違った、読書を娯楽(と云ってしまうと語弊があるだろうが)として楽しむのではなく、知的要素として意味を掴み、自分の中で再構成しようとする意欲の前方に「本」があったということだと云える。
 だから、理系の私にとって、SF小説というものは自分の中にある「科学」への憧れと、信奉と、将来なるであろう科学者として自分(なれなかったが)を空想しては、二重包括的に小説の世界へ幻想耽溺と現実への転写の間を行き来していた世界であった。実際、私が高校生の頃にニーチェの超人思想と、グインサーガの世界とをないまぜにしてしまって、今の私からみれば自己満足の世界を構築し、その世界で突っ走ってしまったのは、あまり賢い方法ではなかったと思える。
 そういう系譜を辿って来て、ここ数年の知的欲求の爆発とも云える読書量を眺めては、そういう道筋を辿らざるを得なかった自分を感じてみたり、それが単なる「妄想」に過ぎないと冷ややかに苦笑してみたりすることが多くなった。
 しかし、今言えることは、なんであろうとも自分の過去を受け入れて、それらを肯定的に現実のものとして捉えていくこと、を私はしようとしている。
 それが、高校時代に自らをグインの運命に重ねあわせ、自分を中心とした、または、他者を排除した自己を作り出すことになったのは、当時の私自身の環境を含めて、良いにしろ悪いにしろ事実として受け入れるしか手段は私には残されていない。
 
 言わば、同時代的に創られ続けられるグインサーガという作品に対し、それを執筆し続ける栗本薫という作家に対し、私は私個人としての人生に十分な彩りを加えるものとしての評価を与えようとしているのだと思う。
 文学がどうの文体がどうの、という以前に、何よりも書き続けるという形でしか成し得ない未だ完結しないグインサーガという物語に対して、高校時代より得られる親近感を持つことができる幸せを得はじめているのかもしれない。
 それが、年月でしか成し得ないない単に長いストーリーというものだとしても、最新情報が価値あるものとして騒がれる現代社会の中で、全く別個の価値(それが私の生きている間でしかないものだとしても)を栗本薫という作家に私は与えることを厭いはしない。

update: 1998/1/20
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