書評日記 第400冊
膝小僧の神様 群ようこ
新潮文庫 ISBNISBN4-10-115917-3

 妹尾河童『少年H』を読んでいるのでその比較になってしまうが、『少年H』が著者・妹尾河童の少年時代として第二次世界大戦がはずせないというところで加賀乙彦『永遠の都』と似ているのに対して、群ようこの描く彼女の少女時代はただひとつの少女の時代として独立しているところで、さくらももこ『ちびまる子ちゃん』に似ていると思う。澁澤龍彦の妹・澁澤幸子が描いた兄の少年時代の姿を描いた『澁澤龍彦の少年時代』を読んで以来、自分の中では「少年時代」というものが私の人生の中で継続し得ない部分として遊離し始めている。
 
 『膝小僧の神様』には、ねじめ正一の描く阿佐ヶ谷商店街の正一くんの姿と同じようなものがあると思う。
 子供の社会は小学校の中にある。小学校の先生は大人で特別な存在だけれども、まさしく特別なものとして小学校の子供の社会の中からはみ出したところにいる。また、家に帰れば家族という社会があって一番下のところに子供である自分がいる。または、兄弟姉妹という形で家族を構成する一員として役割を果たす。小学校での子供ばかりの社会の中でもいろいろなことがある。同様に家族の中でもいろいろなことがある。だが、両方の価値基準は同じ現実社会にあっても微妙にずれたところにあって、その間を子供は行き来する。学校にいる時は先生の話が絶対であり、家に帰れば両親の話が絶対になる。むろん、場合によっては家での絶対は学校にいるはずの先生の言葉にもなる。両親は学校の先生が云うならば、と云って諦めたり、承知したり、逆に、あの先生の云うことはあてにならないと文句を云ったりする。当然、学校の先生の間でも厳しい先生や優しい先生がいて、訳の解からないことを言ったり、納得できることを言ったり、正しいことを言ったり、間違ったことを言ったりする。
 本当のところは、どこに絶対的な基準があるわけではないのだけれども、今だ自分の中に基準を持たない子供は、先生と両親との間で振り回されたりする。そういう矛盾が氾濫する中で、徐々に自分の中に独自な基準を作っていく。
 それが他人様をつくったり、いろいろな人がいるという考え方を作ったり、人とは違った自分を想像したりする。
 同時に、自分で動くことを覚えるひとを創り出す。
 
 ふと周りが見えてくることがあって恐ろしくなって、目をふさいでしまう時がある。暖かな温床に閉じこもって自分だけを愛そうとする時もある。また、それがあまり良くないことだと感じて外に出ようと必死になる。
 いわば、ごちゃごちゃといろいろ考え、いろいろやってみる。そして、懲りたり、うまくいかなかったり、我慢することを覚えたりして、客観視できる自分の姿を作っていく。
 
 こういう子供時代というものが私は絶対なものだとは思わない。だが、必然的に過去にならざるを得ない子供時代という時期が、その時期に無自覚に経験することになった数々の事件が、今の自分に影響を及ぼしてはいない、ということはできないと思う。むしろ、大きな影響があると思う。人それぞれ様々な経験を積んで今に至っている。それらの経験はあまりにも様々であって個人個人を比較することなんて到底できない。
 だから、「経験した」という自覚の上で、同時に「経験しなかった」という自覚の上で、今をどう進めていくかを模索するべきだと思う。
 「運命だった」と云ってしまえば楽なのだろうが、その「運命」はどこで作られたのかと云えば、今作っているところなのだ、という思い込みが私達には必要であると思える。

update: 1998/1/23
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