書評日記 第413冊
ソフィーの世界 ヨースタイン・ゴルデル
NHK出版 ISBNISBN4-14-080223-5

 北欧の国スウェーデンに暮らすヨースタイン・ゴルデルがファンタジー小説を書くに至る動機というものは何であろうか。単純な哲学入門書ではなくて『モモ』に匹敵する面白さを描き出そうとしたキッカケは何だろうか。
 『ソフィーの世界』で描き出される世界は、「哲学」という分野ではあるけれども、物語一般の普遍性を帯びている。同時にさまざまな童話が自分の子供を第一読者として書かれるように(『不思議の国のアリス』が筆頭に上げられるだろう)、「ソフィーの世界」という物語をヒルデにプレゼントするために父親が物語を書く……という物語。ただし、イエイツの育った世界は、ゴルデルの育った世界にも通じている。

 果たして、「哲学」という学科が存在することは「哲学を習う」ことに匹敵するかどうかは定かではない。定かであるのは、「哲学史」という冷たい歴史を知るヘーゲル的な振り返り方だと思う。それは「科学史」や「数学史」という形で、現在進行形で進むしかない科学という分野に対して、否応無し似時間的不変性を持つ歴史を求めてしまうやり方と同じような気がする。だが、皆が学校に行き、皆が教科書検定を通ったところにある教科書で学んでいるにも関わらず「それぞれの個性を大切にしよう」という矛盾を抱え込んでいることを省みれば、まず、人の為してきたことを静かに眺めて見るのも大切なことだ、ということだろう。それから、自分なりに考えたって遅くはないのである。人生は思っているよりも長く、思っているよりも短い。

 現代文学としてどうかと問われれば、ラストあたりのごちゃごちゃした遊びの部分が余分なような気がしないでもない。それこそが北欧の気楽さだとしたら、それはかの国の風土を示していることになる。ただ、『薔薇の名前』と同じぐらい躍動的であるのは確かだし、十分に知的である。それは、テーマが哲学であったり記号学であったりするからではない。大量生産されるミステリー小説とは違った拠り所があるからだと思う。それが「何」であるのかを指摘することはできない。ただ『かもめのジョナサン』という題名を見て、ああ、と肯くほどにしか言えないものがある。それはまさしく「何かがある」という違いに過ぎない。

 本当のところは大切なものは数少ないのだと思う。世の中いろいろなものが溢れかえっているけれども、知らなくちゃいけないことは、しなくちゃいけないことは、そう多くはないということだろう。なぜならば、世の中は豊富過ぎてすべてを網羅することは不可能である。様々な学問が溢れかえり、様々な主義が溢れかえる。ごった煮になってしまった鍋の中が常においしいとは限らない。うまい材料を使ったとしても反吐がでるような味に仕上がってしまうかもしれない。だから、取捨選択をする。たった一度の人生だからあれこれとするのが良いのか、たった一度の人生だからひとつのことに集中してみるのか、という違いなのだと思う。

 文系的な哲学にどっぷりと浸かってしまうのもひとつの生き方である。ただ、眠りの時の海馬の情報整理が夢に繋がると考えれば、「夢の中に出てくるものは前日の経験が多い」というフロイトの言い方は科学的に証明される。同時に、脳の発達は過去の遺産の上にあることを思い出せば、ユングの共有深層も根拠を得る。アクセプターとレセプターの陽電子のやり取りが思考をアセンブルすると考えれば、個々の神経細胞の好き嫌いが陽電子に向かって伸びていく神経節を作り結合度を高めている、と想像することができる。

 これは、ライアル・ワトソンの本を読んでから思い続けているのだが、科学の専門化は科学自体を発達させたけれども、現実世界と遊離させてしまったために「大衆には解からない科学」や「専門馬鹿」を産み出してしまった。これらを繋ぎあわせる形でひとつ分野が必要なのではないだろうか。複雑系と呼ばれる学問が自然科学と経済学の両方に適用されるように、文系・理系の違いではない(もっとも、これは日本特有の分け方なのだが)グローバルな視点から組み合わせることが必須なのだと思う。
 「博物学」という呼称が一番ぴったりなのだが、それは立花隆や巷の科学ライターを示しているのではない。強いて云えば、寺田寅彦とか安部公房とか。澁澤龍彦とか荒俣宏とか。うーむ、男性ばかりの名があがるのは再び男性社会を盛り立てようとしているからなのか。

update: 1998/2/6
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