書評日記 第412冊
科学の終焉 ジョン・ホーガン
徳間書店

 J・P・ホーガンとは別人物のようです。谷崎潤一郎と谷崎俊太郎との違いぐらい違いがあるのか解かりませんが、兎も角、「大学の頃、数学関係の授業を1つか2つは受けた」というほどにしか、ホーガンは科学に詳しくないようです。

 あたら「終焉」を意識してしまうのは、今という時代が世紀末だからだろう。「世紀末」という用語から思い浮かぶのは、ひとつの時代が終わりひとつの時代が始まるというイメージだと思う。となれば、「終焉」という形で片っ端から現在のものを終わりにさせてしまったところで、何もならないのは当然のことであって、次に何があるのか、何を作るのか、何をしたいのか、という形で古臭い既成概念を打ち崩すという前進思想を元にして「終焉」を考えるのが良いと思う。少なくとも、ここ数年間において生まれた人達は、もっと具体的に言えば「平成○年生まれ」という人達は、決定的な昭和の終焉という背景を背負った人達とは別格者として存在していくに違いない。そして、未だ私個人からすれば「平成○年」に慣れず、現在が9年なのか8年なのかも定かではなく、98年という西暦の末期にあたる世紀末を前提として、昭和を継続させて来世紀への準備をしているという個人的な環境を創り出しているのだと思える。
 果たして、『科学の終焉』はそれほど科学の終焉を語っているわけではない。ジャーナリズム的な興味から現在の専門化され過ぎてしまった科学というひとつの分野に対して皮肉を投げかけているに過ぎない。実際問題として、私が手を染めた原子力という分野、純粋物理学、量子力学、という分野は、決定的な終焉を迎えざるを得なかったことは確かなことである。これは、チェリノブイリ原発の爆発以後、未来エネルギーとしての原子力よりも、汚染物質としての原子力が注目され、同時に、核融合炉の研究もままならぬまま、日本原子力関係の予算は大幅に削られたという事実がそれらを証明している。「ひとつ停滞してしまった分野を再び復興するには大変な努力が要る」という教授の科白を思い出すごとに、以前よりもずっと危険味を帯びてしまった施設としての原子炉が、移り気な世論と閉鎖的な秘密主義に囲まれて窒息していく姿が見えるような気がする。
 それは、ある意味では走り過ぎた科学の憂慮だと思う。原子爆弾・水爆から得られた知識を平和利用しようとして原発を作ること自体に無理があったのかもしれない。もっと、そう、石油が枯渇して皆がエネルギーに逼迫してあえいでから原発の作成に取り掛かっても遅くはなかったかもしれない。石油は余っている、と人は云うし、かつて云われたことがある。だが、それは数十年単位で見て「余っている」という言い方ができるのかと私は問い返したい。むろん、私が生きている間は余り続けるかもしれない。だが、数十年後には確実に枯渇する「資源」に対して、何らかの配慮をするのが科学の役目であり先見の目であり子孫を安全に残そうとする作戦ではないだろうか。それらを簡単に放棄してしまう人達に対して私は同意ができない。

 現代科学は湯水のように使うことのできる資本によって支えられている。来た、という過去形を使いたければ、たった80億ドルの粒子加速器を断念してしまった例を出すと良い。だが、東南アジアから血液を持ってきてDNAを解明して特許をとる技術には以前と同じように企業が乗り出してきている。また、電子ネットワーク関係に対しては未だ膨大な予算が与えられている。携帯電話がどれほど便利なものなのか、私にはわからない。公衆電話に足を運ぶ余裕すら人生には与えられていないのか、とも思う。むろん、ここでこうやって書評日記を公開している私自身にもそれは当て嵌まる。自重と自嘲が交互にやってくる。

 ただし、子供の頃から科学に憧れて、科学者になることを夢見て理系という道に進み、愛する先人の天才達を夢見て大学へと進み、失望感や幸福感を同時に合わせ持ちながら、なんとか自分の夢を叶えよう積極的になっている人達に、終焉があるとは思えない。それこそ、かの人自身の死を以って「おわり」にするだけなのだろう。
 むろん、このあたりはドロップアウトしてしまった私の願望が含まれる。そして一言では済まされないほどの様々な人間関係が科学の世界にも蠢いている。
 だが、アインシュタインという人物、シューレディンガーという人物、ハミルトンとう人物から得られるのは、何よりも「科学」という分野が持つ愛らしい人間像のような気がする。むろん、それが私の幻想だとしても。

 ちょっと下世話な面として。
 全般にわたるゴシップ的な口調は頂けない。それこそが週刊雑誌的な売り方をしている意図としてなのだろうが、「アインシュタインは間違っていた」ぐらいなら笑って許してもらえるけれども「南京虐殺はなかった」というようなことにならないように注意が必要である。このあたり、アメリカのマスコミは既に衰退しているのかもしれない。

update: 1998/2/6
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