書評日記 第411冊
虹の理論 中沢新一
新潮文庫 ISBNISBN4-10-129011-3

 『オウムを弁護する形での中沢新一は−』という科白と、山田詠美が彼との対談の後に『快楽の動詞』というあまり彼女らしくない(中沢新一に引きずられているとい点で)小説を書き得たという事実を踏まえて、『虹の理論』を読む。そして、澁澤龍彦の幻想小説よりはあまり物語性を主張し得ない「物語」として、これを読み終える。
 単純に云えば、ざっと読み通してみてざっと通り過ぎてしまった、ということ。

 結論を下してしまえば、哲学者(中沢新一の場合は宗教学者だが)が小説を書くことはできないのではないか、ということ。文学が終焉を迎えてしまうのは、過去の遺物=固定化されたテクストとしての文学が現在の文学(または、文学のようなもの)とかけ離れてしまっているからだと思う。これは、文学作品を読まずに小説を書こうとしたり、また、実際に過去の作品を知らずに小説を書くことができるという事実がそれを示していると思う。逆に云えば、文学作品や文学者と呼ばれる夏目漱石を筆頭とするヒエラルキーの支配下にあることを無自覚化させることによって、小説を書く時に必ず負担となってくる自分の作品の稚拙さによる羞恥を排除しようとしている。それが、無思考性による無邪気な虐殺を意味するものだとしても、これだけ分衆化してしまった広がってしまった文学の世界に対して言えるのは、すべての事実を網羅することも、すべての思想を網羅することも不可能だ、という現実的な問題に過ぎない。言わば、知らなくてもいい情報が溢れている世の中に対して、平穏な精神を保っていくためには、知らなくていい情報は知らない方が良い、という結論に他ならない。
 すべてを丸ごと表現することを諦めてしまった現在の作家達は、「おいしい」ところだけを描き、そして、読者は「おいしい」ところだけを食させられる。口当たりの良く作られた作品は、口当たりが良いのが当然である。だが、「野菜も食べなくちゃ大きくなれないよ」という科白が親から子へと頻発されるのと同様に(これは、中世の食卓では決して言われる科白ではなかった)、偏った嗜好から得られるものは偏った視点に過ぎない。むろん、「家族」というもの自体が偏った環境に違いないのだが、その偏向が未来において危機を産み出してしまう可能性がわずかでもあるならば、偏向を自覚した上で偏向を中心とした広がりを持つことが必須になる。それこそが、それぞれのジャンル化してしまった現代小説群と現代小説読者と現代小説家が臨むべき路だと思われる。

 あいにく、中沢新一の描く物語は小説とはかけ離れている。物語の内部にある作家の存在・非存在は別として、主人公=中沢新一、登場人物=中沢新一のであった人、でしかない物語は、決して中沢新一個人の人生の見分の域を脱しない。もちろん、どのような作家であろうとも同時代性を持ち、風俗に絡めとられた生と死を体験するのだが、これらを過去の小説から得られる「体験」を主眼として文学者の末裔としての名を求めるのか、危うい資本主義社会でのベストセラー作家として非不動である情報に流されるのか、それとも、心理学見地から自分の精神安定剤としての小説を描くのか、という小説を書く目的・動機・キッカケ・必然性を意識する必要があると私は考える。

 かつて、科学者たちがこぞってSF小説の中に自分の好きな科学を取り込み、ひとびとを啓蒙して来たと同じく、小説も思想(嗜好)の道具として使われるようになった、ということだと思う。それこそが、誰もが文章を書きたい時代であって、情報発信と称して数人の仲間内(多くても百人前後)の中で泡沫な情報を交換するに至っているのがその証拠ではないだろうか。むろん、この文章もその一部だし、『虹の理論』もそう。

 そう、「文学の終焉」による弊害は、玉石混淆だとか韜晦だとか乖離(これは筒井康隆が『乖離』を書いてから一般化している)という難しい単語が小説という現場から消え去るということだろう。という自分もあまり難しい単語を知らないが。
 単純に舶来品(?)であった漢語を使った共通概念が減るという事実を示すのだろうけど……。しかし、島田雅彦の『私は大阪弁のネイティブスピーカーではありませんがー』という言い方は、あまりに恥ずかしいので止めてほしい。

update: 1998/2/4
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