書評日記 第423冊
蓮と刀 橋本治
河出文庫 ISBNISBN4−309−40160−0

 『世界秘本生玉子』にある『ソドムのスーパーマーケット』からの変遷。
 サブタイトルに「どうして男は“男”をこわがるのか」とあるけれども、あとがきで橋本治自身が白状(?)している通り「どうして男は“自分”をこわがるのか」というのが正しい。

 橋本治は“おかま”だと思う。同性愛の団体もあるのだが彼の場合その団体とはひとり離れたところに位置する存在である。だから“ゲイ”ではなく“おかま”なのだと思う。
 実は橋本治があとがきで自覚している通り、時代は常に新しくなっている。『蓮と刀』を書いた当時、橋本治は33歳であったが、現在の彼は50歳である。その年月は『蓮と刀』で過剰なほど指摘されている男性の同性愛嗜好、日本の男性社会の図式化、が一般にも認められるようになってきている。むろん、本当の同性愛者がどの程度20年前とは違った認知のされ方をしているのか、社会に受け入れられているのか、逆に受け入れられていないのか、は個人の認識の範囲を出ないわけなのだが、数々の雑誌を見る限り「同性愛」という言葉に対する秘匿な罪悪感は今風ではない、と云えるほどには認知されているような気がする。ただ、隠されて存在しない形での同性愛の認識からサーカスの見世物小屋的な同性愛の認識へと変遷しているだけのような気がしてならない。どっちにしろ現実の日本社会は「性」が職場に受け入れられるほど自由ではないし、職場というものは「性」を受け入れないパブリックな場所である、という意識は強い。
 「性」を受け入れない職場というものは、橋本治の云う通り男性という単一の性が蔓延っている社会を意味しているに過ぎない。男性ばかりがいる職場はあえて「性」を意識することは必要なく、「性」自体が排除される。
 職場の花としての「女性」が認められても、仲間としての女性は受け入れ難い。上司にせよ同期にせよ部下にせよ、決して仲間内にならない「女性」が存在するだけになる。それこそが男性社会である日本社会を意味し、本当の個性というものを認めることを阻んでいるといっても過言ではない。
 ただし、会社という場所、職場という場においてはそういう規律があってこそ、それらが成立しているのだ、ということになれば、この流れに逆らうのは余り賢いやり方ではないということになる。つまりは、会社、職場、という組織への帰属意識に価値を見出す価値観に問題がある、といっても良い。だが、個人であるならばこそ、帰属意識に価値を見出すのも価値を見出さないのも自由であるならば、職場に二つの性を受け入れるのもひとつの進化の仕方だと私は思う。

 結局のところ、女性という集団、ゲイという集団の中でしか生きられない自分の中にはないアイデンティティを求め続けるというところに問題がある。それが男性という集団、常識という集団、に含まれているとしても男性や常識に沿うことができない自分の中にあるアイデンティティを持ち始めた時は苦悩することになる。
 どちらにしろ、身はひとつしかなく、本当のところは自分の身しか理解し得ないのかもしれない。だが、ひとつ自覚するためには他を見ることも必要であり、それでしか為し得ない他者というものがあり、アイデンティティというものがある。

 ある意味では知らないままに過ごすのもひとつ。だが、一度苦しんだならば苦しまないような方法を考えるのが人間である、ということだろうか。

update: 1998/2/21
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