書評日記 第429冊
私の文学漂流 吉村昭
新潮文庫 ISBNISBN4-10-111735-7

 吉村昭の著作は、『冬の鷹』、『破獄』、『戦艦武蔵』、『零式戦闘機』、『陸奥沈没』、『光る壁画』を読んだ。私の中には司馬遼太郎の歴史小説に匹敵するものとして『冬の鷹』が座する。歴史小説とはいえ戦国時代ではなくて江戸末期を好み、坂本竜馬を中心とする幕末の波瀾の時期(とき)の史実を求め続けた私は、剣豪小説に手を染めなかった。それが良いのか悪いのかは別として、歴史娯楽小説を避けた高校生の時期が私にはある。それは、「事実」を知ることが第一であって、架空に作られたものにはなんの価値もないのかもしれないという自問自答の結果であった。無論、筒井康隆やアイザック・アシモフやフィリップ・K・ディックの描くSF小説は決して現実に起こった事実ではない。だが、池波正太郎の「剣客シリーズ」を読む時と、司馬遼太郎の歴史小説を読む時と、SF小説を読む時の私の心は全く違う。だからこそ、その時々の自分の読書の時間に対して、相互に疑問を投げかける。「娯楽」でしかないものに対して、娯楽ゆえの金と時間を掛けるのはどうか、と思う潔癖症の私もあり、事実を追ったところで何の役にも立たない史実を元にした歴史小説の娯楽性に辟易する自分もあり、そして、創造の中にある小説の可能性を模索しようとする自分もいる。
 ただ、ひとつ確実なのは、作品の根底にあり続ける作家の姿を私は求め、そうすることを好んでして来た。ただし、一般的に云われるところの「作品と作家の混交」ではなくて、作家がいたところに作品ができたという因果関係を大切にする。また、そうでしか読み解くことのできない作品への愛着があり、作家への憧憬があり、そう育って来た私という読者がいる。だから、私は娯楽としての推理小説は読めないのかもしれない。

 吉村昭は「勤め人」であった。会社勤めをしながら小説を書く。普通の会社員ならば、会社の中で出世することに人生の意義を見出すのだが、勤め人である小説書きは専ら会社は生活費を稼ぐ場所になる。ただし、いくら生活を稼ぐ場所という割りきり方をしようとしても、一日の大半を過ごす会社の中で頭から「生活費のため」を思い続けて仕事をこなすことはできない。単純なアルバイト的な作業であればそれもできるかもしれないが――本当のところはできないのだけれど――30歳も過ぎれば自分の居場所を求め、ひとつ独立した仕事を会社の中に求めようとする気持ちがあっても不思議ではない。しかも、小説が売れず、それだけでは食べていくことができなければなおさらであろう。
 そもそもが「小説を書く」ということがどこか現実世界に密着し得ないものを持っているために、小説を書いたところで何になるのだろうか、という疑問が常に頭を過ぎらざるを得ない。米を作るほどに小説を創ることに満足できるか定かではない。
 そんな非現実なものを日常の中で続けていくのは至難の技であるに違いない。ただし、それをすることができた人だけが、また、そうすることができる環境を持った人だけが、小説家になれるのだと私は思う。
 いわゆる下積みの時代が吉村昭には長い。ただし、長くあらねばならなかった彼の生活がある。そうした中でしか吉村昭という小説家はできなかったと私はこの本を読んで痛切に思う。

update: 1998/4/19
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