書評日記 第428冊
宮澤賢治に聞く 井上ひさし
ネスコ ISBNISBN4-89036-901-5

 正直云って、私は宮澤賢治を避け続けている。ますむらひろしの『アタゴオル物語』や長野まゆみの『綺羅星―』を好んで読むことがあっても、宮澤賢治の詩や童話を繰り返し読むことはしていない。それは、小学生の頃にあった『永訣の朝』や『雨ニモマケズ』や裾の長いコートを着て幅広の帽子を被って――それが麦藁帽子であることを本書にて知るのだが――うつむき加減で歩く宮澤賢治の姿を大切に保存しておくための手法かもしれない。谷山浩子の歌う『猫の森』には、確実に『どんぐりと山猫』が混じっているに違いないし、どう否定しようとも宮澤賢治の童話体が、あらゆる童話フェチズムの中に潜んでいるだろう。まさしく童話イコール宮澤賢治という形で残されるような絶賛が彼には相応しいのかもしれないが、それに巻き込まれないために、私は宮澤賢治に触れずに来たような気がする。あまりにも絶対的だから、という意味で。
 それでいて、今一度、読むようになったのは、彼を対象化することにより再評価をすることができるような歳になったらだと思う。全集を揃えないまでも、角川クラシック文庫で出ている数冊を読む。ますむらひろしの描く世界が宮澤賢治を発端としてビートルズと融合し、飛躍的な創造を果たしていることを改めて知り、長野まゆみの鉱石への想いが、堅い漢字を使うという意味に於いても、延長線上であり続けることを目指していることを知り、そして、いろいろな可能性を撒き散らしたまま死を迎えることになった宮澤賢治という人間を知ることになる。
 ひょっとすると、聖人化してしまいそうな早死に――37歳という年齢がそうであれば、松岡子規とか石川啄木の方がもっと早い――にあればこそ、いろいろな可能性を秘めていた人物であると無条件に認めざるを得ない部分が宮澤賢治にはあり、また、ポスト宮澤賢治の作品にもある。無論、後続であることはそういう見解が必至にもなるのだが、ひとつの世界(ワールド)の発端として宮澤賢治がいた、ということを示しているだけかもしれない。それが、想像力というものだろうし、ルイス・キャロルやディズニーや手塚治虫と同じものを生み出す人物の持つ宿命のような気がする。だからこそ、長く残るし、だからこそ、かの人ひとりだけでは為し得ない人生をかの人は短く終わってしまうに違いない。

 実は、井上ひさしの絶賛口調が私にはいつも鼻に付く。認めるべき人は物を徹底的に認め尽くす彼の態度はすばらしい……のだが、何故か鼻に付く。単なる僻みかもしれないし、自分ではないところのものに評価するべきものがあるという唯我独尊のワタクシを示しているのかもしれない。ただ、ふと、上のように宮澤賢治について回るのは決して否定ではない感情になってしまうのだから、井上ひさしならずともそうなってしまうのかもしれない。また、ある意味では否定口調を出したところで、決して受け入れれない意見を未然に防ぐ自己保全かもしれない。ただ、井上ひさしが云う「お経の口廻しの良さがあるからこそ賢治の文章は記憶に残るものなのだ」というような理由付けを私は好まない。どちらかといえば、記憶に残るからこそ、仏教なのだし宮澤賢治ということだろうし、それらが選択され認められ広められることはミームの働きの一環に過ぎない。同レベルの問題だと思う。だから、急進派としてではなく東北の地の中で宮澤賢治は生きたに過ぎないし、そうしなくては生きていけなかったということだと思う。そういう座が彼には与えられたし、また、彼はそれを望んだということだと思う。
 ただ、「作品と作家は分離すべきである」とは私は思ってはいず、宮澤賢治の作品も彼自身も一緒くたにして考えて来た。手塚治虫も筒井康隆も同じ。井上ひさしも同じ。言葉は知って模索し足掻かなければ出て来ないものであり、決して現われることがない。だから、みずからの悪文を「うまい文」と盲信して来た――未だに私自身は不明だけど……ちょっとは反省するけど――私にとっては、あらゆる文章は人が作り出す限り、人格を持つということだろう。それが、私の小説家への憧れなのだから。

update: 1998/4/16
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