書評日記 第453冊
万之介狂言の会 野村万之介

 場所は、国立能楽堂。番組は、『六地蔵』、『柑子(こうじ)』、『彦市ばなし』。
 
 狂言は短編小説に似ている。『六地蔵』は、田舎から出てきたとある人が偽の仏師に六地蔵を作って貰おうという話である。偽仏師――作品の中では「真仏師(まぶつし)」と呼ばれる――は3人の仲間と共に六地蔵の真似事をどたばたで繰り返す。そのスラップスティックの感覚は、現在の短編小説にそっくりだと思う。
 ショート・ショートとも云える『柑子』は、きれいにまとまったショートギャグであるし、『彦市ばなし』は、木下順一の原作をアレンジして、随所に笑える部分を含めてある。表情で笑わせるし、格好で笑わせる。
 不思議なのは、古典芸能とされる「狂言」の中に、現代の私達が笑える要素があることだろう。当たり前といえば、当たり前なのかもしれないが、かつての観客は、「狂言」を観て笑っていたのだろうし、また、現在の私達の笑いとは多少違ってはいても、基本的には地口で笑い、可笑しみのあるジェスチャアで笑っているのだと思う。
 今でこそ、小説理論を基盤として、いろいろな用語で語られ解体されてしまう小説群、そして、その理論の中から生み出される小説群があるわけだが、狂言という作品は、それよりもずっと前に存在し、ずっと人々の笑いや興味をもたらして来た、という事実は、小説理論とは全く別の存在であることを知ることが出来る。
 むろん、源氏物語を筆頭として、過去に存在する数々の物語にさまざまな解体・解釈を当て嵌めるのは、愚かなこと――「研究」を目的とすれば、無感情に切り刻むことが必要ではあるが――のような気がする。
 そんなことを考え始めると、狂言を観ていて笑っている現代の観客達は一体どのようなスタンスで目の前で実演される狂言に浸っているのか、また、他の数々の作品群の中から、どうやって選択しているのだろうか、ということを思ってしまう。
 
 『彦市ばなし』は新作の狂言である。木下順一の原作を狂言の中へとアレンジするのだが、時間が長すぎたような気がした。
 また、演劇でやれば2時間ほどかかるものを、1時間強の中に収めているために、ばたばたとした印象がぬぐえなかった。

 文句が多いが、私にとって、妙に真剣味のある狂言観劇だった、ということだろう。

update: 1998/10/28
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