書評日記 第493冊
サマー・アポカリプス 笠井潔
創元推理文庫 ISBN4-488-41502-4

 笠井潔の矢吹駆シリーズを「普通」の推理小説に含めて良いのか疑問に思うのだが、いわゆる「本格推理小説」に属するための知的な遊戯、推理小説に不可欠なトリックだけではなく、「小説」に不可欠な作者が創る独自性(読者が特定の作者・作品を好む理由)は十分に備えていると思う。
 キリスト教異端のカタリ派の部分で、平野啓一郎『日蝕』を思い出すのだが、『日蝕』の描き方が純文学を手法にして小説を書き進めているのに対し、『サマー・アポカリプス』は推理を手法にして小説を書き進めているために、多少のみ込み難い広がりの無い文章(として私は眺めた)として読み流した。
 と、論説『テロルの現象学』から推理小説『バイバイ・エンジェル』に移行した笠井潔の描くところは、まさしく、矢吹駆の云う悪「イリイチ」の繰り広げるテロルにあるのだろうが、その作者の思惑(と私は思うのだが)とは全く違ったところで読者である私は彼の推理小説を楽しんでいる。
 笙野頼子が『タイムスリップ・コンビナート』を書く際に、「相手にいない恋愛が可能かどうかを考え」ていようと、私が『タイムスリップ…』に官能するのは、沖縄会館をはじめとする無骨な庶民性にある、のと同じである。
 つまり、私は笠井潔の考察し提示するテロルに関して彼ほどの興味を注いでいないのだろう。ただし、自己弁護をするならば、これは現実のテロルという悪を容認しているわけでも、全く自分とは関係ない出来事として無視しているのではない。解説で奥泉光が云うように、推理小説という娯楽の中に出てくる架空の存在としての「テロル」という現象を純粋に現実世界のものとは別個のものであると見なしている。社会問題としての「テロル」に関しては此処で言及する事柄でもなく、『サマー・アポカリプス』を読んで深く悩む事柄ではない、と考えているのである。
 しかし、そのためにか、小説後半にあるシモーヌと駆との深淵な(という冠詞を付けておく)は、多少退屈であった。むろん、それが推理小説自体の質を落とすものではなく、小説は一定水準に達すれば鑑賞の仕方は読者に任されるものなのである。
 
 ひとつ「現象学」という手法を実演(と思うのだが)を交えて知る好い小説だと思う。そういう点で、普通の推理小説とは異なると私は思う。

update: 1999/05/20
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