書評日記 第494冊
どくろ杯 金子光晴
文春文庫 ISBN4-12-200328-8

 まだ、途中だが、読む気が失せるかもしれないのでメモ的に書き残しておこう。
 
 中島梓が『夢見る時を過ぎても』で言及する(ってほどでもないが)金井美恵子の『岸辺のない海』を読むと、最近の小説(?)が肉感に執着し過ぎるのに対して、金子光晴の『どくろ杯』の文体は、そこから遠く離れていて新鮮にさえ感じる。もともとが、詩人・金子光晴なのであるから、小説なり(過去に書こうとしたことがあるらしいが)随想なりを主体にしていないので、彼の文体は巷の小説スタイルとは別次元のものなのだ。だから、ひと段落中つづく一見すると意図的なだらだらした文体は、あるいは金井美恵子が『岸辺のない海』で描く肉感の羅列、村上龍や景山民夫が行う資本主義社会のモノの羅列、とは全く別の個性となる。
 金子光晴の詩を読んだことがない(ここが致命的だと思う)私には、彼の生活スタイル(『どくろ杯』中盤に出てくるどくろ杯の出てくるところまでしか読んでいないのだが)は、鳥尾敏雄の『死の棘』を連想させて読み続ける気力を失わせる。ただ、『死の棘』は文学であるに対して、『どくろ杯』は随筆(自伝?)なのだから、それで構わない。佐藤春夫と谷崎潤一郎の関係のようなものだ。
 
 金子光晴の妻・三千代が、金子光晴に束縛されていたかどうかは、この随筆を読んでいる限りでは見えてこない。当然のことながら、金子光晴の人生は彼自身を中心んして廻っていて、妻・三千代の人生とは別の道を歩むのである。それは、現代風の離婚・不倫という表面的な事実認識や、カトリック的な宗教に束縛された離婚の禁止事項、と似たようなものかもしれない。古い喩で云えば、理想的なおしどり夫婦では決してない金子光晴は、結婚しつつも独身を続けていたように見える。いわば、結婚という事実はすべての人に必要ではない、ということを私は強く感じる。言い方は悪いが、人それぞれすきずきなのだろう。
 三千代も詩人であった(と思うのだが、読み違えかも?)ことから、いわさきちひろのように三千代自身を中心にした歴史をつくることも出来たのだが、そうはならなかった、らしい。世に名が出るのが必ずしも幸せとはいえないし、同時に、人はなんのために生きるのか、と問われれば、他人との関係のない幸せもあちこちにある。…が、そのあたりのことは書かれていない。
 唯一、金子光晴が上海に行っていた間、三千代は新しい恋人と暮らしていた、無理のない(と金子光晴は思う)事実だけがある。
 
 と、そんな金子光晴という詩人自体の人生に興味を失い、自伝という形式でもあり、崩壊せずとも復旧しない破滅したひとりの人間(夫婦なのだけども)の生きた道筋を読み進めると、会社に通う自分自身の日常と比較して、どちらが生き易いのか、という不思議な疑問に至る。いや、正直云って、決して飢え死にせずに生き抜けてしまう日本社会の不思議さが、身の回りにあることに、感謝すべきか、それとも、嫌悪すべきか(以前は絶対的に嫌悪だったのだが)、と思い返す。

update: 1999/05/21
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