書評日記 第495冊
恋人たちの食卓 アン・リー
台湾映画

 1994年。台湾映画。現題は『飲食男女』。
 
 去年の暮れだったか、「食事」をテーマにした映画祭があって、観たいと思って覚えていた作品。
 
 コックの父親と三姉妹というパターンは、あたかも日本のTVドラマの設定のような気もするが、それほど、ちょっと前の日本に映画に出てくる台北の雰囲気は近い。フィルムの色が山田洋次していて(黄色人種の肌の色が映える映画フィルム)、カメラワークは伊丹十三のようである。あまり流しを使わない固定されたカメラのポジションは小津安二郎の映画を思わせる。だが、会話のテンポは速くて、中国映画にありがちのスローモーなやり取り(ほんとうの最近の映画は知らないのだが)は排除されている。コミカルではないが、ふと考えればコメディと云えるようなストーリーは、実のところ良く考えられた辻褄の合う映画だと思う。いや、カメラワーク、会話の流れ、次女が取り残されるラスト、等を合わせると、アン・リーは非常によく映画を観ている監督(この作品は脚本もやっている)だといえる。
 
 久し振りに内部を追求しよう。
 「結婚」がひとつのキーになる。大学の頃に失恋して以来、禁欲的なキリスト教(という描かれたかをしている)を信仰する長女、子供の頃に父親の台所に行き来するも女性であるためにコックを断念した(させられた)次女、奇妙なふたりの姉を持つ現代風の大学生の三女、そして、昔気質のコックである年老いた父親、という組み合わせは、一定の型(タイプ)を構成する。ふと、次女という立場は、両親の(映画の時点では片親になっていることがポイントである)期待を受ける立場であり、一番先に家を出るであろう典型的な長女の姿があるも、科学学科という優秀な長女に対抗する形の立場でもあり、料理に一番興味を持つ父親に近い存在としての子供の立場を絡み持っている。
 なぜならば、次女が一番最初にマンションを買って家の外に出ることを計画する。逃げてしまった不動産という不幸に対して、アムステルダムでの副社長という立場を得る。それを、家族の形式的な団欒の場で云うことが次女には叶えられない。そうこうしている内に、三女の妊娠&結婚、長女のキレ&結婚、最後には父親の結婚、という変化が次女の前には出てくる。
 リブでありエリートである次女が一番最初に外の世界に出ていったにも関わらず、だからこそ「家庭」を重んじていたのかもしない。いや、実際には、彼女は彼女の目から見た「円満な家庭」を勝手に妄想していたのである。
 実際、奇妙なハッピーエンドとして、父親は隣の娘(=長女の同級生)と結婚してしまうのは、最後に次女の料理を食べて味覚が戻ったという形式的な人情主義とは裏腹に、次女の思い描く幻想の中の家庭の崩壊が隠されている。
 それぞれの伴侶を見つけた3人に対して、次女がアムステルダムに一人旅立つのは、もっとも先進的でもっとも外部の世界に突出していた次女は、実のところは古風な伝統に囚われていたというニヒリズムに他ならない。
 その姿は、先進エリートという現場とは裏腹に、保守的な家庭への幻想を皮肉っているようにも見える。
 
 と、そこまでの深読みが可能かどうか定かではないのだが、そこまでの無理の無い辻褄が『恋人たちの食卓』には見られる。秀作だと思う。

update: 1999/05/24
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