書評日記 第496冊
果てしない流れの果に 小松左京
ハルキ文庫

 1966年の作品であるが、解説で大原まり子が云うように決して古びていない。ヴォークトの『非Aの世界』と同列に扱えば良いのか私には判別しかねるが、読まれれば確実に面白いという感想が得られるSF小説だと思う。まあ、何故に私が『果てしなき流れの果に』を今の今まで読まなかったのかと云えば、単にこの作品の存在を知らなかった、に過ぎない。私が生まれる前の作品であれば、致し方が無いのか…。
 
 最初の方にエピローグを持ってくるやり方は、どの小説でも踏襲されて来た作法であるから、驚くにあたらないのだが、改めて驚いてしまうのは何も小説が書かれた年代だけの問題ではない。タイムパラドックスを含めて、時間と空間が交差してしまう浮遊感を、ひたすら最初から引きずっていって、最初のエピローグが最後のエピローグにきっちりと繋がる全くの意図された協和主義が、安易な都合主義を廃している。これは、小松左京自身の『首都消失』や『日本沈没』や『さよならジュピター』が、いささか小松左京節の日本感覚(それは、野田節と梶井節とか岬節とか云われるアレと同じである)に陥ってしまうのに対して、『日本アパッチ族』と同レベルを保っている。半村良が○○伝説として、SF伝奇に固執し続けた発端の部分の勢いがあると思う。
 近未来想像をするSFと遠未来を空想するSF、ディックのように思想自体をSFの対象にする作品もあるのだが、輪廻の感覚、階梯という用語から見えてくるものは、荒唐無稽(ということにしておこう)ではあっても高次元に導かれる不安感または満足感を人が常に持っている、決してみずからのみでは安定し得ない「自己」と関わっている。笠井潔が駆シリーズを書くように、コリン・ウィルソンが『賢者の石』を書くように、常かわらぬ未知のものへの言及がある。
 それは、いつでも興味あるハイデガーの『存在と時間』のように、原型といえるものを扱う時の好奇心のような気がする。
 
 今、近未来SFを描くのは困難で、ひと昔にはSFであった物事が現実になってしまい、なんらかの不思議さを抱えたまま(それは、少年Aの殺人事件かもしれないし、『テロルの現象学』の範疇を超えてしまったかもしれないサリン事件でもあり、グローバルネットワーク明るい未来のインターネットかもしれない)自分の目の前の出来事に没頭することになる。スチームパンクという説明なしの命名付け(にしても、半村良の『虚空王の秘宝』の下巻は、なんかひどい)や、横文字の氾濫という現実と、再び漢字(エヴァンゲリオンとか)・表意文字・タイポグラフィに帰っていく表層感覚。
 それは、SFアドベンチャーが潰れてしまった理由は、光子ロケットの構造を云々してしまって抜け出せなくなってしまった想像力の貧困さ(または、逞し過ぎる論理性)を含んだ物理学にあるような気もすれば、反面、空想科学・トンデモ本・疑似科学に象徴される平常な思考から遊離し過ぎるお祭り騒ぎに顔を顰めたりする。
 
 ひょっとすれば、本格SFは古典で読むべきか(新しいものを生産しなくても良い?)と考えてしまう。
 が、『BRAIN VARRY』が売れるぐらいには、外の世界への興味は私以外でも失われていないのだと安心する。

update: 1999/05/24
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