書評日記 第503冊
半生半死 荻野アンナ
角川書店 ISBN4-04-872974-8

 初出「野性時代」1996年1月号。
 図書館で借りた。
 
 荻野アンナという名前を知ったのは文學界だったか群像だったかの『嘘つきアンナ』という小説だった。タイトルを見て、その作者が荻野アンナという名前であることを確認し、今風(死語!)の小説内に著者を嵌め込んだ小説かぁ、ということで読まなかった。連載であったのもその理由であるが。
 ふと、『たとえば純文学はこんなふうにして書く』をぱらぱらとめくり、その中に荻野アンナという名前を発見し、なにか読んでみようという気になった。
 
 無野という生きた死体、無理子という娘、「半生半死」を「野性時代」に書いている荻野アノナや、アイデアを盗まれたと怒る荻野アンナ、順番に内臓をグロテスクに描いた小話形式。ひとつひとつは決して斬新な道具仕立てではない。時としてアイデアがしょぼいものもある。が、それだけで一冊まるごとを埋めていく技量は、やっぱり作家なのだなあ、と感心する。
 250頁あまりの本を、一回切りの掲載で載せてしまっては、読者は疲れなかったかと思う。実際、私は疲れた。ラスト三分の一は正直、読み終えるために読んだような気がする。
 あるいは、週刊の漫画雑誌のようにちびりちびりと掲載されていた方が、読者も楽ではなかったか。週刊なり月刊なりで楽しめるゆとり(という言い方も変なものだが)が欲しかったような気がする。むろん、一冊の本になってしまえば、それを読むスピードは読者に委ねられてしまうから、一気に読もうとして、後半で食傷気味になったとしても著者のせいではないのだろう。多分。
 いわゆる「娯楽」である。
 
 文学が人を救えるのだろうか、という問いに対して『子どもを救え!』は向き合って書き始める。同様に、『半生半死』は、動く死体と内臓のグロテスクさ(どちらかといえば、プラスティネーションを見た時のニュートラルな物質感)を娯楽として書く。どちらも、小説という形態を取り、読者を得る。これは、当たり前といえば当たり前なのだが、SFやミステリーや推理小説や歴史小説とは違った場所にしかない、純文学という形式があるのだろう。少なくとも、『半生半死』は、高橋源一郎の『さようならギャングたち』の半分ぐらいの楽しさを味わえる。ヘッセの『デミアン』に長野まゆみの『テレヴィジョン・シティ』を重ねてみるようなものでもある。
 
 ただ、真ん中あたりの饒舌さに少し欠けるかな、と思いもする。筒井康隆風の饒舌体や言葉遊びの一歩手前で止めてしまうのは、この作品にとってはあまり良い選択ではなかったような気がする。

update: 1999/06/15
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