書評日記 第504冊
石の来歴 奥泉光
文春文庫

 芥川賞受賞作品。ということで読む。
 表題作「石の来歴」と「三つ目の鯰」の二作品。
 
 「石の来歴」は、文字どおり「石」を中心にして話が進む。「石」という言葉から捉えられるイメージその通りに進む物語は、戦争を絡めていることもあり、大岡昇平の『野火』を思わせる。
 解説でも言われている通り、ミステリー仕立てになっている。兄を殺したのは弟なのか否か、は読者に解答されないままに物語は終わる。一見、不十分な結末に至るように思えるが、読後はそう思えない。というのも、弟は父親に一心に可愛がられる兄に子供ながらも殺気を含んだ嫉妬を持っていたであろう、という肯定を暗黙の了解として持っているからだ。これは、一般常識として広まりつつある心理学の通説(エディプスコンプレックスの類)を基盤としている。
 それが、ある意味では古さ(笙野頼子のワタクシ小説は新しいのか?)を感じさせ、私ならば大岡昇平という人物の名を思い浮かべるに至る。そして、中上健次のような、と注釈を入れたくなのだが、一方で、「石」という既存のイメージから脱しない安定性ゆえの古びた腐臭を思ってしまう。
 ある意味で、戦争で石の説明を受け、戦後に石に親しみ、長男が石に興味を持ち、そして、静かに死亡し、次男が兄と反対に活発化し、暴力を引き起こし、死亡する、という手順は「筋書き」のように思えてしまう。むろん、その「筋書き」に則って生き死んだ三人の男(あいにく女性は出てこない)の物語、という体裁をこの作品は持つのである。
 
 静けさ、という点では「三つ目の鯰」も同様で、村社会に漠然と反抗する父親の死に対し、叔父との対話を通して、彼岸という奥深い制度を見詰め直す。
 伝統的な手法は、決して手慣れた手法とは違うけれども、「伝統芸」的な固着がなくもない。たとえば、浅田次郎の小説を読んだ時に思う、平凡さは、その文章が持つ平易さゆえの平凡さなのだから、失われるべき伝統的な文章とは違うし、流行を追うことは更に違う。花村萬月の小説のようにパフォーマンスを主とする(私にはそう見えている)文体とは遠く離れ、安定している。
 ただし、伝統的な形だからこそ、その上に積み重ねるべきものがある(と信じれば)それ以降の新しい伝統的な形が創られるのだろう。そういう点で、中上健次の小説は買うことができるけども、奥泉光の小説は手順の良さのみが光っていなくもない。まあ、これは初期作品(と思う)なのだから、仕方のないことなのだろうが。多少なりとも、技術を持っている分もったいない感じがする。

update: 1999/06/16
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